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エヴァ以後のオタクが「シン・エヴァ」を初日に見なければならなかった理由

≪※作品内容には殆ど言及していませんが、少量のセリフ引用が含まれます。ネタバレを気にされる方は、作品鑑賞後にまたいらしてください。≫


2021年3月4日、深夜。いつものように日付が変わらんとする頃、ぼんやりTwitterを眺めていると、そわそわする人達がいやに目に入った。どうやら日付変更と同時に、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」(以下、「シン・エヴァ」)の公開初日分のチケット販売が始まるらしい。そのまま眺めていると、オンライン予約の待ち時間がエグい、やべー、みたいなスクショやツイートが流れてくる。やっぱりエヴァって社会現象なんだな~、というひどく雑な感想を抱きながらその様子を見ていた。0時45分くらいだったか、どのぐらい埋まるものなのだろうと、映画館のオンライン予約ページを覗いてみた。アクセスはすんなり進んだ。

「あ、わりと空いてる」

平日ド頭の月曜日だ。夜が埋まるのは仕方ないとして、早い時間帯、映画館を選べば、そこそこまともな位置の席が空いてる状況だった。予定は色々と融通も利く。そんなこんなで、2021年3月8日の朝、僕は映画館に足を運んでいた。同時に、漠然と、なんで初日に見ようとしたんだろうな、とも思っていた。見ようとしたら見れる状況であった、という単純な理由もある。しかし同時に、「シン・エヴァ」を見るのなら、ネタバレなどのノイズ無しに見たい、という気持ちがあったのは確かだった。


僕はいわゆる「エヴァ直撃世代」には当たらないと認識している。僕が「オタク」という概念を認識するかしないか、漫然とアニメを見ていた頃にはすでに、ふわふわではありつつも、「エヴァっていうアニメがすごいらしい」という認識がすでにあったように思う。言うなれば僕は「エヴァ以後」のオタクだろう。

初めて「エヴァ」を見た時期は明確に覚えていないが、それなりに子供だった。TV放映版の再放送を録画して、休みの日の暇な昼下がりとかに見ていた気がする。めちゃくちゃ血とか出るし、痛そうだし、怖かったけど、EVAや使徒の有機的なビジュアルや、街中が戦闘設備化されているところなど、ミリタリー的な泥臭い世界とは少し異なるSF感みたいなものに惹かれていたのだろうと思う。よく理解できるわけではないけど、見ていてなんとなくテンションは上がったし、印象には残った。そういえば、ミサトとリョウジのあのシーンも、よく理解できるわけではなかったが、横で食事していた親が微妙な空気を漂わせていたのは覚えていて、訳も分からず申し訳ない気持ちになったことも印象に残っている。もし僕が親になったとき、あの微妙な空気を漂わせることができるのだろうか。

その後の僕は、オタクとしてすくすくと成長していくのだが、「エヴァ」がその中心になったわけではなかった。電撃文庫をはじめとしたライトノベルに出会い、挿絵に描かれる可愛い女の子たちに惹かれ、アニメ・ギャルゲー方面へのスキルツリーを進めていった。しかし、ここでもレイ・アスカの影はどこかにちらついていた。「萌えキャラ」という類型化・記号化が行われるなかで、彼女たちはその先祖のように語られていた。

そして僕は、オタク批評、サブカル批評などの界隈に出会うことになる。ここには、主に「セカイ系」という言葉と共に、あまりにも深く「エヴァ」の影が広がっていた。それまで僕が出会ってきたコンテンツたちの源流が、「エヴァ」に収束されていくかのような感覚に陥った。もちろん「エヴァ」自身の源流をたどることもできるのだが、それを始めるとキリがないし、そこにあまり強い関心は生まれなかった。僕と同時代のコンテンツたちにとって、最も近い収束点として見えたのが、「エヴァ」であった、という感じである。

僕の父はビートルズが好きだった。家や車でもよくビートルズが流れていた。子供の頃の僕は、別にビートルズが嫌いではなかった。父はよく『ビートルズはすごい。今あるロックやポップスの基礎にあたることを、ビートルズは殆どやってるんだ。』ということを言っていた。その後、僕はバンプを知り、音楽を好きになっていくのだが、それに反比例するように、ビートルズを聴きたくなくなっていった。別にビートルズは嫌いではなかったはずなのだが。

アニメを見て、ネットの感想や、取り上げられた本などを読むと、「セカイ系」という言葉が目に入る。「セカイ系」という言葉は「だいたいエヴァっぽいよね」という意味だとぼんやりと理解していった。『エヴァはすごい。今あるセカイ系作品の基礎にあたることを、エヴァは殆どやってるんだ。』という誰かの声が聞こえた。色んなアニメを見るうちに、反比例するように「エヴァ」を見る気が起きなくなっていった。別に「エヴァ」は嫌いではなかったはずなのだが。

積極的に「エヴァ」に触れようとはしなくなったものの、あれだけの有名コンテンツである。有名であるからこそ、消極的な人の視界にも届く。社会現象というのはそういうものだ。新劇場版は映画館にはいかなかった(そもそも当時は映画館に行くという習慣自体がなかった)のだが、テレビ放送のタイミングが合ったか何かで見ていた。おかげさまで、「ヱヴァ破」のラストを見たときにはそれなりの驚きがあった。そこから「ヱヴァQ」を見るのは「シン・エヴァ」のチケットを取った後、と時間がガッツリ空いてしまうのだが、これは個人的にアニメオタクとしての命が消えかけていた影響もある。急いで見た「ヱヴァQ」は、面白かった。もっと早く見ておけばよかったな、とも思った。


なぜ僕は「シン・エヴァ」を初日に見に行こうとしたのか。それは「エヴァにケリをつける」とも言える。だが、たぶん直撃世代の皆様の意味するものとは、すこし異なると思う。これまで書いたように、僕は真剣に「エヴァ」を見ていない。しかし、「エヴァ以後」のコンテンツたちにはたくさん触れてきたし、それらが僕と同時代に生まれたものたちであり、共に育ってきた友人のような存在なのである。そして、彼らの背後には、どこか「エヴァ」の幽霊が見えていた。そして、彼らと共に歩む僕の背中にも、「エヴァ」の幽霊はいたのだろう。僕は真剣に「エヴァ」を見ていない。僕にとっての「エヴァ」は、僕のこの目で見てきた体験というものよりも、誰かの言葉や解釈によって口頭伝承されてきた幽霊のお話、怪談のようなものだったのだろう。僕が『幽霊なんて信じない』と言うのは自由だが、『幽霊はいる!』という人たちがたくさんいることも事実だ。あまり意思が強くない僕は、幽霊に怯えざるを得なかった。

そう考えると、僕が「エヴァ」という幽霊から解放される最後のチャンスが、「シン・エヴァ」を初日に見ること、だったのだと思う。人づての伝承ではなく、自らの体験として、成仏する瞬間を見る。僕には「エヴァ」という作品を理解できるほどの積み重ねはない。それでも、「エヴァ」という幽霊自身が、『これから成仏しまーす!』と言って見せるものを体験することで、幽霊の存在と適切な距離をとって、その他のコンテンツたちと遊ぶことができるようになるのではないだろうか。丑三つ時まで遊んでも、幽霊の心配をしなくてよくなるかもしれない。きっと、ここに乗り遅れたら、「エヴァ」の成仏という出来事を、僕は伝承でしか知ることができなくなってしまうだろう。そして、(確実に現れるであろう)『幽霊はまだいる!』という人たちの言葉によって、僕は怯え続けることになるかもしれない。そんなささやかな焦燥が、僕を映画館に連れて行ったのだろう。


「シン・エヴァ」そのものは、とても面白かった。映画館に慣れていないぶん、映像や音響の力に新鮮に圧倒されたという側面は否定できない。だがそれでも、アニメーションという手法をもって、何を表現できるか、何を体験させられるか、どんな物語を語れるのか。そういったエンターテイメントの意義と挑戦、そんなものを改めて感じさせられる体験であった。

そして、「エヴァ」という幽霊にとらわれずに、コンテンツたちと戯れられそうか、というところだが。これに関しては、残念ながら解放されることはないのかもしれないな、という諦めを抱いている。とはいえ、この諦めは後ろ向きな性質ではないようだ。「エヴァ」とは怯える対象たる幽霊ではなく、いっしょに遊べるちょい年上の友達、くらいに感じられるようになったかもしれない。

“さようなら、全てのエヴァンゲリオン。”
“「さようなら」は、また会えますように、のおまじないかな。”

映画館からの帰り道で、この二つのセリフが結びついたとき、なんとなく、「オタクでよかった」と感じた。