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モンスターと恐れられた男「非人間化」の罠

今日は僕が出会った人間の中で、最もおぞましく邪悪な男について書こう。

彼はある瞬間からダークサイドに落ちて、人を攻撃することに明け暮れた。

ターゲットにした人間は、彼の狙い通り心を壊された精神を病む人が続出。

今でもその後遺症に苦しんでいる人間を、僕は複数名知っている。

彼のビフォーアフターを知っているので、完全に闇落ちしたのを実感した。

その彼を見て「血も涙もない」「人間じゃない」と深く傷ついたことがあったのだが、そのとき僕からすると彼は完全にモンスターに映った。

なぜなら「人間だったらそんな残酷なことはできないだろう」という考えがあったからだ。

加害行為に手を染める人間を「あいつは人間じゃない」と認識することを、非人間化と呼ぶ。

戦争で敵の命を奪うには、相手を非人間化する必要がある。

良心が痛めば、相手を攻撃する際に躊躇し返り討ちに遭ってしまう。

非人間化は、白黒の二極化で考える極端な思考だ。これは脳が整合性をとろうとする機能に関係している。

「彼は人情味もあるが、ときに血も涙もないところもある」という複雑な面を統合して考えることが脳は苦手だ。

それよりも「あんな残忍な行為をする人間は、もとから人の心を持っていないに違いない」と決めつけた方が脳の負荷が減らせる。

話を攻撃依存症者だった彼に戻そう。

彼の悪評は轟き、彼の悪事を知る者は「あんなひどい奴はいない」と憤った。

「サイコパス」「異常な人間」など過激な言葉が飛び交い、彼のイメージがどんどん肥大化していき瞬く間に恐怖の対象になった。

ただし彼が邪悪な行為に手を染める前、非常に後輩の面倒見が良かったことを僕は覚えている。

さて2023年に「人がなぜ攻撃に依存してしまうのか?」を探求しているうちに、ある答えに行き着いた。

キーワードは正義と制裁。

人間は自分が絶対の正義だと思い込んだ瞬間、視野が狭くなり、正義の鉄槌を振り下ろしたくなる。

自分を正義側だと思い込み、人を処罰する行為には大きな快楽が伴う

罪人認定した人間を叩きのめした瞬間、脳内で恐ろしいほどの快楽物質が分泌されるのだ。

ここ数年で言われる正義中毒は、正義依存の言い換えである。

モンスターと怖がられていた彼は、血も涙もない人間というより、自分の正義を疑わないタイプだった。

彼の口癖は「〇〇に決まっている!」「許せない!」「俺がやっつけてやる」というもの。

認知の歪みが匂い立つ口癖だが、恐らく彼は正義感は強かったのだろう。

しかし歪んだ正義なので、他者か見ると彼は残虐非道な極悪人に映る。この著しい自他の認識の差が非常に興味深い。

正義のヒーローだと思い込んでいる人間が、ある人間からすると悪魔にしか映らない。

人間は多面的な存在だ。

多面的であるという本質に目をつぶり、一面的な人間として捉える。

これがキャラ化で、非人間化もキャラ化の一種であるのは間違いない。

「あんなひどいことできるなんて人間じゃない」と思ったら、それはすでに相手を非人間化している。

一方で「人間だから、あんなひどいことができる」という言葉もまたしっくりくる。

利他的なことをするから人間。されど利己的であるから人間。

「あいつは人間じゃない!」と憤怒した瞬間、人は憎悪の対象にレッテルを貼り、ある一面だけにフォーカスするようになる。

しかしそれは脳を納得させるための、無意識の作用に過ぎない。

レッテル貼りは、傷ついた心を落ち着かせるための自己慰撫だ。

非人間化をした途端に、それ以上考えなくて済む。つまり心が楽なのだ。

腑に落ちる答えに行き着くまで思考し続けるのは、なかなかに難しい。

それゆえ人は、シンプルなレッテルを貼りたがる。

最後にもう一度、記すが「人間だから、ひどいことができる」のだ。

僕もあなたも、恐らくそこまで綺麗なだけの存在ではない。

誰でもモンスターになる種を持っている。

清濁併せ吞む、それこそが人間だ。

そのことを忘れた瞬間、人はどんどん邪悪になるし闇に落ちる。

闇落ちしないためには、自己の闇を受容して飼いならすことが重要だ。

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