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「相手の価値を引き下げる」ではなく「自他の価値を認める生き方がしたい」と心から思えた日

僕は歪な自己愛を持つ人間がすごく苦手だ。嫌悪、拒絶している。

しかし彼ら彼女らのことを、kindle書籍に書いているくらいなので、そこに執着があることも確かだろう。

「自己愛者はなぜしばしば人を傷つけ、相手の価値を引き下げるのか?」を考えるきっかけをくれた男性がいた。

彼はいつも競合的態度で人に接し、「勝たない人生には意味がない」といった価値観で生きてきた。「どんな状況でも、どんな汚い手を使ってでも勝つ」を信条としていた。
ホモソーシャルの権化で、男性だけの集まりでは「この中で一番、抱いた女の数が多いのは間違いなく俺だ」と高笑いをしていた。街角で見知らぬ女性に声をかけ、言葉巧みに口説き落としワンナイトをしたことを、自慢げに語っていたのを目の当たりにしたのは、一度や二度ではない。

極めて品位のない野卑な人間だったが、強いエネルギーを持っていた。彼は相手がすぐに改善できない点をあえて声高に指摘して「どうして変わらないんだ?」「お前はバカなのか?」「論理的思考ができないのか?」「義務教育を受けてこなかったのか?」と矢継ぎ早に責め立て、相手の自尊心を傷つけて挑発し、論破を好んだ。

混乱した相手が取り乱すと、感情を煽り「図星だからって、ムキになるなよ」と嘲笑する悪癖の持ち主でもあった。興奮した相手を指さし嘲笑う様は今でも脳裏に焼きついている。その様子は、悪魔そのものだった。

「お前には〇〇する資格がない(俺にはある)」といった論調で一方的な詰問をするので、もちろん人は離れ忌み嫌われる存在になっていく。

「お前らはメンタルが弱い(俺はお前らとちがってメンタルが強い)」が口癖だった彼が、実は精神を病んでいたと、ふとしたとあとで知ることになる。

無頼派を気取り、しゃがれた大声で豪快に笑い、誰よりも早いペースで酒を煽り、タフであることをアピールする。
そんな彼の精神は、決して強靭なものではなかったのだ。

「隙を見せてはいけない」「弱さを見せると、寝首を搔かれる」という警戒心から、常に心身がこわばった状態だったのだろう。

それゆえいつしか「やられる前にやっちまえ」という過度に攻撃的な姿勢が身についたのかもしれない。

心が凝り固まるのは、原理主義的、排他的な考えを持つ人間が陥る末路だ。柔軟性を失った精神は、ある瞬間にいともたやすくポキリと折れる。こういった原理主義者の折れた心は、もう二度と元通りには戻らない。なぜなら自分が吐いた言葉が、鎖となって自身を締め付け続けるからだ。それはもはや、呪いの自縄自縛である。

表に見せていた屈強な顔と、裏の脆弱な姿を知った僕は「歪な自己愛を持つ人間のアンビバレンスな性質と大いなる矛盾」について、長い時間考え続けた。

そして「相手の価値を引き下げないと不安な他人軸の人間とは疎遠になる」という結論を導き出し、現在にいたる。

なぜこんなことをつらつら綴っているかといえば、昨日の夢に、くだんの彼が出てきたからだ。

彼がこれまで僕や他の人間を罵った言葉が、夢の中で再現され、どんよりとした嫌な寝覚めだったのだが、そのあと、ふと腹落ちした。

これまで僕は「ああいった自己愛者のようには、絶対なりたくない」と強く念じていたのだが、それだけでなかった。言葉に続きがあったのだ。

僕の信念は「自他の価値を認める生き方がしたい」である。

だからこそ、他人の価値を引き下げ相対的に自分が上がったかのように演出する自己愛者に対して、ずっと憤怒していたのだろう。

相手をさげすみ相手の価値を下げようとするような人間に、幸せは訪れない。彼ら彼女らの周りには敵だらけである。心から信頼できる相手など、ひとりもいないだろう。

気づけば僕の周囲には、相互に価値を認め合える、柔軟に内省ができる人が増えている。

過剰に自己を大きく演出したがる人間は、虚栄心という病にさいなまれている。取り繕い自分を偽るのは、自信がない証拠だろう。

大きく見せたがる人、強がる人ほど精神的に弱い。不自然な振る舞いは、自分に軸がないからにちがいない。
反対に等身大の自分をそのまま認められる人は柔軟だ。こういう人は、総じて高いレジリエンスを持っている。自身の弱さを認めている人は、他人からの評価をそこまで気にしない。

改めて自分がコミュニケーションしたい人間と、同じ空間にいるのも嫌な人間が理解でき、腑に落ちた朝だった。

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