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人生に意味を与えるもの。【モリー先生との火曜日】

 知り合いに勧められて「モリー先生との火曜日 (原題:Tuesdays with Morrie)」(ミッチ・アルボム:Mitch Albom 著、別宮貞則 訳)という本を読んだ。

 いろいろ感じること、思うことがあったけど、印象的な言葉をいくつも与えてくれる本だった。いくつかの言葉を引用して紹介しつつ、自分が感じたことを文章にしていきたい。

愛すること。

「人生に意味を与える道は、人を愛すること、自分の周囲の社会のために尽くすこと、自分に目的と意味を与えてくれることを創り出すこと」

 作中何度か使われるこの言葉は、よく問われる「人が生きる意味とは?」という問いに答えの一つになる言葉だ。多くの哲学、宗教で「人を愛する」ことこそが、人生の意味になり、幸福になれる道であると説かれているだろう。キリスト教でも「汝の隣人を愛せよ」なんて言葉があるし、「愛」は人間の根源に近いものだとされることが多い。詩人のオーデンが言った言葉として、こんな言葉も出てくる。

「互いに愛せよ。さなくば滅びあるのみ」

 どうやら、「愛」とは人生に無くてはならないものらしい。ふと、我に変える。「おれは、心の底から愛というものを信じられるだろうか」と。自分はまだ20数年しかこの人生という道を歩んできていない。だからまだ分からないのかとも思った。けど、きっと違う。「おれが愛を信じていないのは、おれがおれを愛していないからだ」と、直感が自分に語り掛ける。「おれを愛する」というのは、自分勝手になることでもないし、自分に甘くなることではないのだろう。ただ、自分の現状を受け入れ、自分の感情を受け入れ、自分のやりたいこと、好きなことを受け入れる。そして自分の意志を尊重する。その上で、「今のおれができること、やりたいこと、やらなくてはならないこと」が何かを分析する。「おれという人間の存在を愛する」ことは、おれにはとても難しい。それができてから、その自分への愛を他者に向けることが、真の愛なのでは無かろうか。

 大事なことは、愛は恋愛とは違うということだ。愛は少しずつ周りに広げていくものなのだろう。恋人や自分の妻、夫だけでなく両親や兄弟、そして友人や仕事の同僚にまで「自分を愛するように他者を愛する」ことが、生きる意味につながっている。自分にできることで他者に貢献することが、きっと人生の意味を与えてくれる。そんなことを思わせてくれた。そしてそれこそが、「自分の周囲の社会のために尽くすこと」なのだろう。

死ぬことと、生きること。

「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる」

 人間は、いつか死ぬ。生き物である限り、必ず死ぬ。そのことを分かっていれば、生き方も変わってくると先生は説く。いろいろな物が大量に手に入る現代において、人間は「金を稼ぐこと」や「何かを手に入れること」に躍起になる。そうしてたくさんの物を手に入れても、人は真の意味では幸せになれないのだろう。そして、躍起になっている間に「自分はいつか死ぬ」という当たり前の事実すら忘れてしまっている。

 おれは、生きている間に、何がしたいのだろうか。友人に問われたことがある。

今死ぬってなったら、死ぬ前にこれはしておきたかったこととか、まだ生きてこれをしていたいってこと、あるでしょう?

 おれは、数秒間考えても、なんの答えも出せなかった。自分が生きてやりたいことが本当に無いのかもしれない。自分がやりたいことを、いつの間にか封じ込めてしまったのかもしてない。やりたいことを、人に話すことを恥じたのかもしれない。まだ「愛」を知らないからなのかもしれない。そして、自分が「いかに死ぬか」を学んでいないから、まだ何も浮かばないのかもしれない。

 今、改めて考えてみる。自分は生きていて、何がしたいのだろうか。

 友人と酒を酌み交わしたい。酒は、余計な思考を拭い去ってくれる。マイナスなことも、周りの気にしなくてもいい人のことも、忘れさせてくれる。一人で飲む美味い酒も好きだが、気の置けない、素のままで自分が語りたいことを語れる友人と飲む酒は、いつも好きだ。

 ゲームをしたい。小学生のころから、ゲームが好きでしょうがない。水疱瘡になって、出席停止になったときには一日中ゲームをしていた記憶がある。きっと自分はゲームが好きなんだろう。

 カードゲームをしたい。MtGやポケモンカード、そしてハースストーンというデジタルカードは、おれをいつもわくわくさせてくれる。コロナのせいでショップに行きづらい日々が続いているのが悲しいが、ショップでカードをまた楽しみたい。自分の好きなカードをコレクションとして集めてみるのも悪くないかもしれない。コレクションにするなら、デュエマなんかも懐かしくて心惹かれる。

 勉強や読書をしたい。数学は(最初は算数という名前だったが)昔からおれを楽しませてくれたし、他にも経済のことや投資のことも学ぶのは楽しかった。現在は応用情報技術者の資格をとるために勉強しているが、その勉強もとこか楽しんでいる。そして何より、これを書くきっかけになったのも読書なのだから、読書もしたいものだ。

 こうして出てくるのに、あの時問いに対して答えられなかったのはなぜだろうと思う。きっと「そんなことが生きる楽しみなの?」と思われるのが怖かったのだろう。でも、そんなことがおれの生きる楽しみなんだ。「こんなちょっとした楽しみを毎日積み重ねているのだから、いつ死んでも構わないし、まだ死にたくない」今のおれはそう思う。

文化のこと。

「文化がろくな役に立たないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない」

「逃げ出せばいいってもんじゃない。自分なりの文化を創るのがかんじんなんだ」

 資本主義という経済体制は「人間は裕福になろうとする」という心理に基づいたものだという。お互いが今よりお金を稼ごうとすると、社会全体が結果的に裕福になり、幸福になれるはずだ、という思想だ(自分は経済にあまり明るくは無いが、概ね間違ってはいないと思っている)。モリー先生は、これを真っ向から否定しているように感じられた。

 「文化」と訳される前の単語は原著の目次を見る限りおそらく「culture」だろう。「culture」の意味を英英辞典で調べてみる。

The beliefs, way of life, art, and customs that are shared and accepted by people in a particular society.
和訳:一部の共同体に属する人々の間で共有され、受け入れられている心情や、生き方、芸術や風習のこと。

 これを踏まえたうえで、思う。おれを含めて、多くの人々が「共同体の声」を聴きすぎているのではないだろうか。「culture」は、おれたちにこう声をかける。「もっと金を稼げ」「結婚して家庭を築け」「いいものをもっと手に入れろ」そんな声をかけてくる。「culture」が、「どう考えるか、何を価値あるとみなすか」を勝手に決めて、押し付けてくるのだ。

 しかし、「どう考えるか、何を価値あるとみなすか」を決めるのは自分であって、「culture」ではない。先生はそれを決めることを「自分なりの文化を創る」ことだと呼んだ。おれが生きていてしたいことは、さっき述べた。それを楽しいと決めたのもおれだし、したいと決めたのもおれだ。自分の創った「culture」を、どうして恥じる必要があるだろうか。

おわりに

 こうして書いてみると、なかなかに長い文章になってしまった。しかし他にも考えたことは山ほどあったし、いい言葉も山ほどあった。自分の思考を整理する意味でこの記事を書いたが、より多くの人に、「モリー先生との火曜日」を手に取ってもらいたいとも思う。

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