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マイノリティの理解者と当事者。彼岸と此岸に橋はかかるか。

noteユーザーと読者には、何らかのマイノリティに対して理解を示す気がある人が多いのではないでしょうか。偏見ですが、同性愛に“嫌悪感を抱いて”反対する人、在日外国人に出て行って欲しい人、女性の社会進出を怖がる人というのは、ほとんどいないんじゃないかと思っています。
私自身も社会学を学んできたので、やはりマイノリティの人々を、マジョリティの立場として見過ごすわけにはいかないだろうと思ったりします。もちろんカテゴライズが変われば、人は誰しもマジョリティになったりマイノリティになったりするものですが。
ましてや私は、喫煙者、小児性愛者、快楽殺人者、セックス依存症、超マイナーな趣味を持つ人など、世間から見たらちょっと、もしくはかなり受け入れにくい人たちも包摂するべきだと、部外者ながら思ったりもしています。自分で言うのもなんですが、その必要性を解く声の大きさの割に、自分はマジョリティとしてぬくぬくしてる現実から抜け出すことはしていません。そのためどこまでも偉そうだなと自分でも思いますし、本当にマイノリティの立場に置かれている人を理解できているのか?と疑問に思うこともしばしばあります。
そんなアライ(=理解者、支援者など)になろうとし、自分自身も特定の分野ではマイノリティに置かれている私が常々悩んでいることを書いていこうと思います。

私の悩み、それは、「マイノリティの当事者と理解者・第三者という此岸と彼岸の間には、わかり合うという橋が架けられるのか」ということです。

生を脅かされる感覚の有無

マイノリティといっても、その数は無限にあります。マイノリティという言葉からはポリティカルコレクトネスであるとか、リベラルな風潮の香りがしてきますが、ざっくり言って仕舞えば少数派なわけです。人はある日突然少数派になります。犬派か猫派か、目玉焼きには醤油か塩かソースか、最終学歴はどの教育段階か、などいろいろ想定はできますが、所属するコミュニティや人生経験などから、あなたはいつ何時たりともマイノリティになる可能性があります。

あなたが犬派だと言う時に、周りの49人の仲間がみんな猫派なら、あなたは1/50人というマイノリティです。しかし、あなたが犬派48人、猫派1人のコミュニティに属している時、あなたはマジョリティとなります。ちなみに私は動物全般があまり好きではないので、この犬派猫派議論の輪から見れば総勢1/100人(あなた×1、筆者×1人、猫派×50人、犬派×48)のマイノリティとなりますが、5chの生き物苦手板にいけばマジョリティとなります。しかし世間的に見れば、5chの生き物苦手板に書き込みを行う人はマイノリティであり、私がその板にいたとしても、周りのユーザーの方がおそらくより生き物が苦手なので、私はそこでもマイノリティになる可能性があります(要は程度の問題)。

しかし、これはマイノリティや差別問題の矮小化を促す危険な帰結です。そのため、マイノリティの存在を考える時には、彼ら彼女らの置かれた境遇を考える必要があります。ここでは「生を脅かされる感覚」と呼んでみますが、要するにマイノリティであることで、生きていくのが辛くなったり、自分の尊厳を踏みにじられたり、生きる支えとなる考え方を否定されるレベルのものは、特に考えなければいけない問題として捉えています。

前述した犬派か猫派かという議論であなたがたまたまマイノリティになったとしても、あなたが生きていく上でダメージを負うことはないでしょう。しかしあなたが同性愛者であったり、トランスジェンダーであったり、日本社会において外国にルーツを持つ人であったりすれば、生きていく中で少なからず生きづらさを感じるかもしれません。
また、どうしても動物を虐待する衝動に四六時中かられたり、動物愛護の観点から現代社会の食文化・ファッション・ペット業界がとにかく耐えられないという場合、先の動物の議論も、生きづらさを発生させる重大な問題となります。

当事者の複数性

在日外国人、障害者、同性愛者、、、マイノリティは一括りにされ、マジョリティと区別されることが多いですが、マイノリティの中にも当然差異が存在します。差異は生育暦や育ってきた環境、マジョリティの人との関わり、嗜好、経済状況などによって無数に発生します。

性的マイノリティを例にあげましょう。
まず、同性愛者(レズビアン、ゲイ)なのかバイセクシャルなのかの違い。性自認が男、女、それ以外かの違い。さらに、男性で性自認が女性、恋愛対象は女性というように、LGBTの混合。性別適合手術(この言葉の是非は置いておきます)をする/しない。モノガミーかポリアモリーか。性に嫌悪感を抱くか、好意的か。SかMか両方か。性行為の経験数。結婚願望の有無。学生か社会人か。理解者の有無と人数。家族の認識。パートナーの有無と遍歴。などなど。

今ここに、17×17の点と線でできた格子状の道があります。この点(●)は、その人の経験や趣味嗜好になります。左上のS(スタート:出生)から右下のG(ゴール:現在)まで、辿ってきた道が現在までのその人のマイノリティ人生となります。SからGまで最短で結ぶ道はいくつかありますが、中には壮絶な人生を送ってきた人、他の人とは変わった性癖や考え方を持っている人など、遠回りの道を歩んでいる人もいるでしょう。また、かつて交際したパートナーの特徴や周りにいる友人の反応、理解者の人数や特徴なども踏まえると、この289個の●が埋められるほど細分化できると考えられます。

さて、ここで問題です。S(出生)からG(現在)まで、遠回りを許しつつ、同じ●を通らない道順の数(=環境や嗜好によって細分化されるマイノリティ一人ひとりの特徴の数)はいくつになるでしょう?

1000通り?10000通り?正解は・・・



6344814611237963971310297540795524400449443986866480693646369387855336通りです。


  63無量大数
4481不可思議
4611那由他
2379阿僧祇
6397恒河沙
1310極
2975載
4079正
5524澗
4004溝
4944穣
3986𥝱
8664垓
8069京
3646兆
3693億
8785万
5336

通りです。

もはや世界人口より多くのパターンが考えられます。
もっとも、これは私が無量大数やら恒河沙やらを使いたかっただけなので気にしないでもらっていいです。要するに、その人の経験や環境によって、無数のマイノリティが存在するということがわかってもらえれば良いです。

こうなると、例えばあなたが友人から「自分はゲイである」と相談され、理解者になろうとしてネットや文献から「ゲイとは何か?ゲイの人はどんな悩みを抱えるものなのか?」と調べ上げてその人に当てはめようとしても、完全に一致させることなど不可能といえるでしょう。

無限に考えられるマイノリティは置いておくとして、性的マイノリティにおいて最もよくある誤解(63無量大数の中のベスト1)が、「性同一性障害と同性愛の違い」ではないでしょうか。


https://www.jinken.ne.jp/flat_consultation/cat196/cat198/4_1.php


おそらく多くの人は、この63無量大数個の複数性の入口にも立てていないです。複数性に目を向けずに紋切り型のマイノリティ像で考えていると、こんな簡単な間違いも見つけられないのです。そんな状況から理解者になるのも難しいものですが、大切なことはその人を型にはめて考えるのではなく、「その人はどう考えているのか?」をきちんと聞いてあげるという意識を持つことです。63無量大数個のラベリングではなく、1人の人間として対峙する、と言い換えても良いでしょう。

百見は一経験に如かず

「百聞は一見に如かず」という有名なことわざがあります。先の複数性の問題もそうですが、学校の勉強や文献でマイノリティの情報を得ても、実際に当事者と対峙するともっと複雑な事情を抱えているものです。そのため、百聞は一見に如かず、机上の勉強よりも当事者と話すことがマイノリティ理解には有効だと考えられます。
しかし、「生を脅かされる感覚」と私が表現したように、マイノリティ当事者は壮絶な経験、他人と違うことで感じる疎外感、理解者がいないという苦しみを味わっていることも多いです。ですから、マイノリティ理解は極論、「百見は一経験に如かず」といえるでしょう。
ちなみにこれは私が見聞きした話だけではありません。私自身、女性の服装に興味があったり(それでいて女性になりたいわけではない)、ポリアモリーであったりするなど、ほとんど理解されない類の性的マイノリティを抱えて生きてきました。だからこそ、数少ない話を聞いてくれる人に伝えても、いまいち伝わりづらく、暖簾に腕押しとまではいかないまでも、どこか空回り、見えない壁が消えない感じを受けます。
よって私は結論、マイノリティの当事者と理解者・第三者という此岸と彼岸の間には、わかり合うという橋は架けられないと考えています。
ただし、だからと言って理解することをやめる、橋を架ける営みをやめてしまうべきではないと思います。いくら分り合うことはできなくても、理解しようとしてくれる、その聞いてくれる姿勢だけで嬉しいものですし、私もひとりで抱え込まれるよりも、少しでも生きづらさを話してくれた方が、その人を少しでも理解できるというものです。また、ちょっとだけでも力になれることがあるかもしれません。

まとめると、マイノリティの当事者と理解者・第三者という此岸と彼岸の間には、わかり合うという橋は架けられない。マイノリティ当事者を100%理解することはできないけれども、100%に近づこうとする架橋をやめないこと。マイノリティ当事者を紋切り型に捉えるのではなく、その人にしかない当事者性を見ようとすること。この意識を持つだけでも、意味のある理解につながり、此岸と彼岸は渡りやすくなるのではないでしょうか。

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