差別が隠す別の差別

今に始まったことではありませんが、人種差別や民族差別はほぼどこの国でも重要な問題とされています。ただ、それこそアメリカにおけるBLM運動を見るとおり、ほぼ解決もされていない問題でもあります。

ヨーロッパでは中東や北アフリカから移民・難民が大量に入って来た、この10年くらいの間でさらに人種・民族・宗教の問題はクローズアップされてきましたが、一つの差別を解消するために他の差別が無視されてしまうことがあります。ヨーロッパに入ってきた、主にイスラム教徒を中心とする移民が、在来の西洋文化が取り組んできた女性差別解消の動きと真逆の文化を持っているという問題は無視されがちです。

ダグラス・マレーの「西洋の自死」など、指摘する人も出てきましたが、イスラム系の移民が移り住んだ国で女性差別、特に性犯罪を犯しても人種・宗教差別と指摘されないように、警察の対応が甘かったりマスメディアが取り上げなかったり、という状況がありました。改善されてはいるようですが、差別を無くそうとするあまりに別の差別を生み出すのは皮肉というだけでは言葉が足りない悲劇です。

これはいわばリベラル派が移民への過剰な配慮をするあまりに女性差別を放置してしまったという事例ですが、問題はリベラルだけではありません。

コロナ対策を巡って中国と対立しているオーストラリアがインドと接近しているとの報道もあります。中国自体は西洋社会とは相容れない価値観を持っているのは確かですが、それはインドも実は同じです。

中国では香港の支配を強める問題やウイグル・チベットなどでの弾圧で欧米から批判されますが、インドにおける強烈な差別制度はあまり取り上げられません。オーストラリア政府やあるいは日本政府がインドの人権問題を批判しないのは、敵の敵は味方ということで国家戦略を考えて自国の国益ベースで動く以上はしょうがないのですが、人種や民族の差別を日頃非難しているメディアなどがインドのカースト制度はほぼ言及しません。

人権を大事にするはずのリベラル派はもちろん、中国嫌いの保守派が中国非難のネタにしている人権問題をインド国内における差別には適用せずにスルーするのもダブルスタンダードと言われてもしょうがないでしょう。

結局は、政府もメディアも自分の立場を補強する主張しかしないというごく当たり前の結論になってしまうのですが、大きな問題の前には小さな問題(本当は小さくないですが)が無視されてしまう、という残酷な現実でもあります。

これを突き詰めていくと、誰も何も言えなくなり、一番得をするのは非難を気にせず平然と差別する人や組織となってしまいます。安易にジャーナリズムをこういう論法で批判したくはないですが、情報を受け取る側の人間としてはこういう問題もあるという認識と覚悟はしておくべきでしょう。

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