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僕が短歌を始めた理由―「記録」と「格闘」

僕は短歌を2019年4月頃に開始して、11月現在で83首を詠んだ。
この数字が多いのか少ないのかはわからないけど、自分のペースで出来ればいいと思っている。


短歌をやろうと思ったきっかけ

絵とか写真とか音楽ならメジャーなジャンルで触れる機会も多いので、始めるきっかけも巷にあふれていると思います。

短歌は詩のひとつの形ですが、5・7・5・7・7(七五調)などの定型を持たないいわゆるふつうの詩なら、多くの人にとって比較的まだ身近な存在であるはずです。

しかし短歌になると、ほとんどの方にとっては、教科書のなかでしか見ないものなのではないでしょうか。


そういう状況でやろうと思ったのは、僕はネットで創作活動されている方の投稿を見るのがけっこう好きで、
そこでは意外と短歌をやっている方が多く、触れる機会があったのが大きなきっかけのひとつになります。


そもそも、なぜ創作活動をするのか

より詳しい理由を語る前に、ここから話していこうと思います。

まず僕はネット上で10年くらい創作活動をしてきています。

色んな形でやってきました。最近は小説やエッセイが中心ですが、実はいちばん最初はゲーム制作をしていました。
精神的に荒れていて攻撃的だった時期もあります。かと思えば受け手に奉仕する面が大きかった時期もあります。


また繰り返しになりますが、他の方の投稿を見るのもけっこう好きなタイプです。中には自分以外の投稿にぜんぜん興味がない方もいますよね。

たとえば何かの賞を目指してストイックに創作しているなどの場合は、なんとなく目についたという理由で他人の作品を見ている暇はないのかもしれません。スタイルは人それぞれです。


僕は自分のやりたいことをやっているだけで、何かを目指してやっているわけではありません。(過去にはギラギラしていた時もありましたが……)

何が楽しいかというと、短歌でも小説でもエッセイでもなんでも、一つ完成させるたびに心が癒されたり、しなやかに強くなっていくような感覚があるので、それが好きなのだと思います。

(プロフィールに書いている「生きる中での痛みを乗り越えるべく、鬱屈した小説を書いています」とはそういう意味です)


それもただメモ帳に書いて誰にも見せないよりも、ネット上に公開して見てくれる人がいるということが大事であるように感じます(ありがとうございます)。たとえ拙いものであったとしてもね。

見られる相手を想定すると、自分だけの日記とは書き方も変わってきます。

自分の他には誰も読まない紙の日記になら、ひたすら自分に都合よく書いても何の問題も生じません。

ただそのままの形で誰かに読ませても、自分が感じたものを他人には十分に伝えられないと思います。


他人に伝えるためには、さまざまな表現の工夫や客観性が必要になってきます。

めんどくさいなと思われる方もいるかもしれませんが、
それはやっていて胸がわくわくするような事だし、
うまく出来れば出来るほど自分の心の癒され度も上がるという不思議な仕組みになっています。ほんとうに不思議です。


自分の中で良い表現が出来たと思えると、身体から元気が湧いてくるのはなぜだろう。

他人に伝わる形になっていなかったり月並みな表現でしかなかったら、上滑りしている気持ちにしかならないのはなぜだろう。


自分には嘘をつけない。
誰も見ていないところで密かに嘘をついても、自分自身が目撃している。


そして、短歌を始めた理由

多くの方はどこかに出かけたり、人生のなかの印象的な場面において、
それを保存しておきたいという気持ちになったときに写真を撮るのだと思います。

僕が短歌を詠む理由はそれに似ています。一つは「記録」したいというモチベーション。


もう一つは「格闘」してじっくりと味わったり、消化して整理したいというモチベーション。
改めて時間をかけて振り返ると、また違うものが見えてきたり見え方が深まっていくのが好きです。かなしみもよろこびもね。


大切なものを見落としたくない。

あの日の夕焼けや吹きぬけていく冷たい風、ふたりの間に流れていた時間、あの子の涙、彼の握りしめたこぶしの理由、過ぎ去っていく壊れやすいものたちを。


もちろん「記録」と「格闘」は、小説やエッセイなどの他の形でも可能です。僕にはその能力がないけれど絵や写真、音楽などでも可能だと思います。

しかし自分の感じ方とアウトプットの能力だと、短歌にするのがちょうどいい(あるいはエネルギー効率がいい)場合がなかなか多いんですよね。


また、僕は小説において、具体的な描写を緻密に積み重ねていくのが苦手です。整合性が重視されるミステリーとか書けません。
あ、これは向いてないな、って感じの脳の疲労があります。知恵熱に似ているような。

どちらかといえば長く展開していくよりも、短く凝縮するほうが得意なのだと思います。あと具体よりも抽象。


短歌の七五調(5・7・5・7・7)の定型は、安定感と説得力を僕に与えてくれます。

決まった型があるということは、学生が制服を着ることにも似ている気がします。

その統一があるがゆえに、すこしスカートの丈を短くしてみたり、カッターシャツをズボンの外に出すなどの小さな違いが、大きな意志を伴ったものに見えてくるのだと思います。

(短歌を読むには短歌特有の読解力が必要になる場合もありますが、短歌に詳しくない方にも伝わるように詠んでいきたいという気持ちがあります)


終わりに。最初と現在を比べてみる

始めたばかりの頃の歌はこちらにあります。いろいろと恥ずかしい……

肖像画暖炉にくべて君は去る結い髪の背を追えぬ霜月

凛とした瞳と笑みと黒髪と手首の傷がたまらなく好き

アルバムの中の希望が明日のふりして目の前に立ち塞がる夜

(ほんとうの初期の初期の歌はネット上に公開していなかったり、ツイッターに流すだけにとどまっています。あるいは投稿した時期と詠んだ時期が違ったりもします)


11月現在に詠んだ歌はこのあたりになります。成長してるかな?

室外機錆びた自転車睦まじく囁き合うの秋の路地裏

「あ、失敗。」暗い部屋へと浮かび来るあなたの罵声(わたしのREC)

すくわれたい夜がそだてたかみさまと君の生身が出会う夕焼け


まだまだ初心者ですが、そんな感じでやっていきたいと思いま~す。
入門書や短歌集を読んで勉強したりもしていて、成長したいという意欲はあります。
年内に100首まで詠めたらいいな!(現在83首)

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