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「生きづらさ」にまつわるキャリア支援に15年間携わり、日本の閉塞感の打破について一番重要だと考えていること

どこもかしこも違和感だらけ。「私の居場所は何処?」

独立以降どっぷりと浸かってきたNPO業界に対して
違和感を感じ始めたのは、おそらく6年程前の2016年頃であった。
身を粉にする自己犠牲的な働き方が横行しているNPO業界に
キャリア支援をしてきた身として、大いに違和感があった。
「これでは全く持続可能ではない。」
そのうち潰れる人が続出するのが目に見えているような形では
どんなに良き活動をしていても存続出来ない。
助成金や寄付頼みの経営スタイルでは、
不安から解放されないまま運営していくこととなる。
業界全体をひっくり返せるような打開策をずっと思案し続けていた。
 
私がまず見出した打開策は「NPO業界に固執しない」ということだった。
妊娠期に思いきってこの業界を飛び出して、
"ある意味対極"のビジネスの世界へと触れてみようと考えた。
"ある意味対極"と書いたのには理由(わけ)がある。

少し遡るが、私は2014年頃から到底NPO業界のbudget(予算感)では
実現出来ないようなDX事業の構想を持っていた。
それをとあるAI業界の若いベンチャー社長にお話していた際、
忘れもしない、ホテルのラウンジで
「大して利益で見たら事業会社より全然社会を変えてもいない(!)
非営利事業者には協力出来ない」という趣旨の話を突然投げかけられ、
腹わた煮え繰りかえっていた。
そのぐらい、ビジネス界の人達からNPOは馬鹿にされる節があり、
実際は棲み分けしているだけなのだが、
そこを全く理解していない人達も多く悔しい想いをした出来事だった。
既にその一方では、企業CSR等
事業者とNPOとの連携は珍しくなかったその時期でもなお、
この対立軸の溝は埋まっていなかった。
 
今となっては、別にそれは良いのだが。。
違和感はそのままには出来なかったので得意の越境スタイルを発動。
それほどに利潤追求型事業者(特にスタートアップ)と非営利型事業者には
当時とにかく「混ざり合えなさ」があったが、
私は自ら混ぜて事業にいくしかないと考えていた。
だから、敢えて敵陣に乗り込むような心持ちで、
課題解決よりも事業拡大を是とする利益重視の世界に踏み入れていった。

その世界に改めて触れにいったとき、沢山の気付きはあったが、
そちらも違和感だらけだった。
 
マーケやブランディングを一通り学び、
その頃伸びてきていた個人ビジネス界隈のトレンドも数年触れる中で
ひと通り掴めたのだが、一番驚いたのは
大企業でキャリコンをしていた時に感じた違和感と
似た違和感を何年も経っているのに、またも感じたこと。
「みんな無理して茶番を繰り広げている。
それも企業から独立して自由になったはずの人達が・・・!」
その姿は、実に滑稽に私の目には映っていた。

日本人はどこへいっても
素を出せない人種になってしまったのだろうか。

業界には、業界なりの商習慣やトレンドや同調圧力がある。
そこに必要以上に囚われて、不自由になっていたり空回りしている人達が
あまりに多いことは、どの業界でも起こっている社会現象なのだと感じた。

再現性・論理性・結果論偏重の世界において、
そこに無理して合わせていると、自分が歪んでいき、限界がくるか、
そのうち感性が衰えていって不感症となる。
(あ、念のため補足しておきますが、
再現性・論理性・結果論=悪 という話ではないのでご注意を。
あくまで因果の話です。)

論理と感情は、対比して語られることが多いが、
実は対極ではなく補完し合うことで相乗効果を得られるもの。

であるのにもかかわらず、偏りがちな我々。

一番恐いのは、その偏りよりも、
社会に扇動されて、
自分にとって大切なものまで知らぬまにないがしろにして
生きてしまうことである。

居場所を見失うぐらいなら、違和感を貫いて生きるといい。

周囲に合わせているうちに
自分を見失っている人が多過ぎる。
自分が何を欲し、何を望み、何をこだわり、何を大事に生きるのか。
違和感を紐解くと、それは鮮明に浮かび上がってくる。
違和感の裏側には自分にとって大切な価値観が潜んでいるからだ。

私自身も何度も越境する度に、違和感を無かったものにせず、
丁寧に見つめながら過ごしてきた。

冒頭に書いたように、居場所と感じられる場所の少ない日本全体にも
違和感を感じていたけれど、
段々とその背景が人財支援を通じて見えてきた。

「空気を読む」「協調重視」「出る杭は打たれる」は時代遅れ

ここ数年は、元々あった人間の多様性が明るみに少しずつ顕在化してきた。
ダイバーシティ・インクルーシブといった言葉も耳慣れてきたが、
その多様さや多面さが共存するには、
「うやむやにしない異文化理解」が鍵となる。

どういうことかというと、
これまでは混ざり合わずに別世界に生存していれば平穏だった
人間達の素顔が互いに見えるようになり、共同体で放置出来なくなった時
「合わない部分は蓋して仲良くしておきましょ」では済まなくなるのだ。
ぶつかりながらも、互いの距離感や立ち位置を調整していく
異なる他者との関わり方の作法が必要となってくる。
それが、まさに「うやむやにしない異文化理解」のスタンス。

うやむやにしていると、自分にも相手にもよろしくない。
組織においてそういう場面を嫌というほど見てきたし、
社会において、たとえフリーランスや一人起業などでひとりで働いている場合であっても同じで、
顧客や誰かしらと関わらないとビジネスは成立しないので、
うやむやにしていると、ろくなことにならないのである。

ハリボテが肥大化して、
生きているのがどんどん辛くなってゆくだけ。

無垢な赤ちゃんや幼児を観察していれば、
人間にとって本来の在り方が自ずと見えてくる。
見られ方を意識してハリボテな自分を演じ、
コテコテに武装した赤ちゃんなど誰も見たことがないでしょう?
社会的建前をとりのぞいたときに
顔を出す自分をしっかりと認識し、受け入れ、そこを表現する。
その先に、真の理解が広がっていく。

居場所探しの終点は自己受容

一生エンドレスに続くように見える、居場所探しには終点がある。
終点は遠いようで、とても自分の近くにあり、
近すぎてなかなか見えず捉えづらい「自己受容」という駅である。

捉えづらいのだが、決して難しくはない。
赤ちゃんの時には自然とどんな人間も出来ていたのだから。

しかし、大人になってしまうと経験が邪魔をする。
その経験をベースに形成された自分の脳の思考回路に
意識的にリセットボタンを押す必要がある。
「それが難しいのだ!」という声が聞こえてきそうだが、
実はそうでもない。

経験則から脱するには、環境を変えるが一番

環境を変えてしまえば、
実は経験則ではたちゆかない場面に自然と遭遇する。
そうすると「経験則」と「現実」との間にズレが生まれるので
必然的に、チューニングが起こる。
このチューニングこそ、思考回路のリセットボタンとなる。
 
当たり前にしてきたことが、
自分がいた環境の中だけの正解であったのだと気付ければ
あとは早い。

子連れ世界一周をした時にも感じたことだが、
常識も前提も当たり前も、全て環境が違えば違う。
 
当然のことなのにそこを「体感」として認知するまでは
悲しいかな人間の脳はそこを意識出来ないまま過ごしている。
だからこそ、積極的越境が特効薬となる。

積極的越境を繰り返すと辿りつく副産物がある

実は、越境しても変わらぬ自分もリセットボタンの副産物として得られる。
すると不思議。自分の中に確固たる居場所が出来てくるのだ。

経験則に依存し、周囲からの影響を受けた自己ではなく、
どんなに周囲が変化したとしても、変わらぬ要素が見出せるという
とっておきの副産物があったことに、
越境しまくって生きてきた結果、私は気付くことができた。
それはブレない自分の指針・軸となる要素なのだ。

固定化された環境に居続けると、
しばしば、そういった自分の軸が見えづらくなる。
「自分が分からない」「自分の強みが見えない」
そういう人ほど、
今いる居場所を離れて行動してみると発見が多々あるはず。
そして、ここぞとばかりに
蓋をしていた自分を解放してみることが大切。
解放しながら、自分と環境との相性を探ってみればいい。
自己受容も、その先に立ち現れてくる。

自己理解や社会理解よりも先にトライして欲しいこと

キャリア支援において、
重視される自己理解・社会理解・その接点を探ること。
間違ってはいないのだが
その前段があると私は考えている。
それは、理解の解像度を高めるために必要な「感性を養うこと」
ここでいう"感性"とは
個々人の経験に裏打ちされた固有の感性であり、
優劣的な尺度があるセンスの有無のような話ではない。
瑞々しい感性があって、ようやくあらゆる認知は鮮明さを帯びてくる。
また、自己理解と社会理解も個別のものでは実はなく、
繋がっているので
関係性の中で自己も社会も浮かび上がってくる。
しかし、その関係性を洞察する前に
その洞察をする視点・観点が無くては「気付き」も乏しくなってしまう
ケースは多い。

人財支援家としての一番の危機感
「日本人の感性がどんどん衰えている」

先に挙げたような色々蓋をしながら生きている人達に
多く遭遇してきたのだが、
そうした生活を続けた馴れの果ては、本当にロボットのような、
人間の一番の旨味の部分を削ぎ落としてしまったような状態だった。
そんな人達に出会う度に
「この人が本来持っていた感性はどこへ消えてしまったのだろう?」
と、危機感が湧いた。

もう一度、感性を蘇らせるために

感性が再生させる為に必要なのは、
日々の自分の感情の動きに敏感になること。
そのセンサーすら衰えて不感症気味になっている場合は
まず、蓋をする前の自分を振り返ってもらいながら、
当時の感情を呼び醒ましていく。

大抵、感情に蓋をした「きっかけ」的な体験が存在していて、
それまでは、解像度に違いはあれど感情を感じてなかった人はいない。

と同時に、日々の感情記録を感じた瞬間に記録していってもらう。
そこを共に掘り下げていくと、
少しずつ感性の輪郭が見え始め、
その裏側を構成する価値観も明らかになっていく。
最近は、そうした感情を扱う支援もしながら
周囲に合わせるうちに歪んで失われた感性を取り戻し
清々しい生き方へと誘う伴走サポートもしている。

特に、コロナ禍の打撃は大きい

比較的感情の起伏が激しいタイプの私ですら、
「自分の感性が鈍っている」と感じていた時期があった。
産前産後も被っていたこともあり、
家族以外と話す機会が激減。
その結果、刺激に溢れていた日常からの反動で
変化が減り、心が動かなくなっていった。
この体験は自分でも衝撃的だった。

自分から湯水のように湧き出て留まることがなかった感情が
ピタッと止まって、無味乾燥な虚無感に襲われた。
はっきりと「このままだとまずいぞ。」という感覚だけがあり、
コンクリートに囲まれたマンションでのstay homeじゃ
あれだけ忙しかったはずの心も止まってしまうのだなと強烈に感じた。
その後、感性が再生する場所へと移住することになる。

私の話はさておき、クライアントでも、
少しバランスを崩すと闇落ちしてしまう人達が圧倒的に増えた時期で
メンタルマネジメントを依頼される数が増えた。

感性を養うと何がそんなに良いのか?

これまでの話の中でも、多少分かって下さった方もいるかなと思いますが、
総まとめとして、この問いに答えておきたい。

感性を蘇らせること、感性を養うことで
自分を理解することや社会を理解することのベースとなる
自分なりの観点・視座が育つ。
周囲の常識やノウハウ、ステレオタイプを鵜呑みにする前に
自分の「メガネ」を持てるということ。

そして、その「メガネ」を通して、様々な事象や出来事を
振り返ったり、観察したりする中で、
土台があるからこそのブレない思考力が育まれていく。

さらには、その思考力の先に
その人にしかない創造と納得感のある人生が生まれていく。
自己肯定感や自信といった昨今話題持ちきりのテーマにも直結する。
自分なりの感性を信頼出来るようになることは
どんな喜怒哀楽をも内包する自己受容感を引き出すことができ、
それは、自信や自己肯定感にも繋がっていくのだ。
自分自身のことのみならず、
自己信頼や他者信頼とも深く結びついているので
自分を深く信頼出来るようになって初めて、他者の信頼や受容、
それこそ多様性への理解も育っていく。
 
ここまで読んでもらうとお分かりいただけると思うが、
人生迷子が量産される選択肢の多い世の中で
社会に翻弄される前に自分なりの観点の原点となる「感性」をもつことは
良いこと尽くしなのである。

だからこそ、今、生き方や働き方の一番の土台は
「感性教育」なのではないだろうか。

自分らしさの探求よりも自分の感性を味わう時間を

心惹かれるものに触れることや、
自分を満たす時間を過ごすことを蔑ろにしては
自分らしさを追い求めてみても、
なかなか見当たらないはず。
自分探しをする前にすべきは
じっくりと自分の感性を味わう時間を持つこと。

「感性を味わう時間って何ですか?」という方もいるかもしれない。
感性を味わう時間とは、
五感を研ぎ澄まし、
頭であれこれ考えるよりも
思わず反射的に動いてしまう身体や心に身を任せて
一旦思考は置いておいて
感覚に委ねて時間を過ごしてみること。

もしも、そう言われても「難しいなぁ」と感じる方は
既に少し自分が自分の感性から遠ざかって生活している証拠。
感性との距離感を測るバロメーターにもなるので、
難易度を確かめてみて欲しい。
そして、論理的思考ばかりが働いてしまう場合には
ひと呼吸置いて、パソコンやスマホを閉じ、
自然の中にでも繰り出してみたり、芸術鑑賞などしてみると良い。
情報過多時代においては、感情や感覚も容易く遮断されてしまうので
そうした邪魔になりやすいものは手放して
感性にフォーカスをする時間が必要となる。

そうした時間が取れていない多忙な人ほど、
きっと難しいと感じるはずだ。

まとめ:縮こまった感性と違和感を解きほぐしながら、
グッと生きやすくなる
やわらかい創造的思考や自己受容へと近づこう

気付けば5500文字を超える長文になってしまったが、
人財支援家として一番伝えたいのは
端的に言うなれば
「同調圧力を跳ね除ける土台となる感性を養って、
お互いに素を出せる日本にしていきましょ!」

ということ。

それが、ゆくゆく、これからの時代への備えとなるはず、と
これまでの実践知から強く信じている。
 
とにかく引き続き、行き詰まり感を抱く人達の背中を押し続けながら
私は粘り強く構造的なパラダイムシフトにも力を注いでいきます。
 
ちなみに、この領域の学術的な知見を知りたいという方は、
是非SEL(Social Emotional Learning)という領域を深掘ってみて下さいね。
参考図書としては、以下を挙げておきます。
子どもの教育や学びに関する書籍ですが、
今の大人にも十分適応できる学びが詰まっています。

もう一つ、超オススメ書籍がありましたので追記しておきますね。
教育社会学をベースに「生きづらさ」を分かり易く紐解いている書籍です。
これは以前ラジオをご一緒してくれていた乳がん闘病中の友人が
書いたのですが。もう読んでいて私語ること無いわぁ・・・と感じるほど
素敵な良著でしたので、是非興味湧いた方は読んで頂きたいです。

ここまで、こんな長文にもかかわらずお読み下さった皆様、
ありがとうございます!ご感想、ご意見、メンションやDM含め
率直に頂けたら大変嬉しく思います。




*個人向け伴走セッション等については、
以下に詳しく纏めてありますので詳細はこちらよりご覧ください。
https://rootsspiral.com/for-individual/  
セッションについては以下LINEより
お申し込み頂けるようになっております。 少し棚卸ししたり、
考えてみたいなと思ったときはお気軽にお問い合わせ下さいね^^

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