小休止:帰る場所がなくなるということについて
京都の夜にラムライム
京都にやってきた。目的は台湾に住む友人に教えてもらったアーティストのライブである。全然知らないアーティストで、正直に言うと好みではないのだが(勿論素敵な音楽ではあるのだけれど)、そのライブが開催されるクラブがあまりにも懐かしくてふと行きたくなった。見に行こうかなと連絡をくれた台湾の友人は結局日本に来ず、なぜか私1人でそのアーティストのライブに行くことになった。
夕方京都に着き、そのまま宿にチェックインする。実家が奈良なので京都に泊ることは殆どないが、京都に泊るときはいつも同じところに泊っている。といっても、2年前が最後だった。そのときは4日ぐらいの滞在で、京都で暮らすように過ごせてとても楽しかった。久々に訪れると建物もスタッフも変わっておらず、時間が止まっているみたいだった。
宿で荷解きをしたらあっという間にライブの時間になったのでクラブに向かう。踊る気満々で向かったら、入り口に「踊れません」という張り紙が張り出されていて拍子抜けした。いつからこのクラブは踊れなくなったのだろう。そもそも踊ったらだめだったのか?
入ると、真っ黒で狭くて天井が低い、いかにもな空間に律儀に椅子が並べてあって驚いた。スタンディングじゃないのか。席は全て埋まっていたので、会場後ろの柱に寄りかかって立ち見で聴く。ライブは本当によかった。ノリノリの楽曲もあるのだが、この日は3本のギターが奏でるひっそりとした音楽に、みんなでひっそりと耳をすませる時間だった。合間のトークも3人ともウィスパーボイスで全然聞き取れない。そこはひっそりしたらあかん。
そのうちの1人、友人が教えてくれたアーティストは、白髪が混じりはじめた「いい年の大人」なのだが、話し方や身振りがどこか少年みたいだった。いつまでもアーティストは大人にならないのだと不覚にもときめいてしまった。かわいらしい人。そして、その純粋な心が音楽にも表れているようだった。いつもはアメリカの西海岸の彼の部屋で仲間たちと気ままにつまびかれているであろう小さな音色が、京都の片隅の小さな空間に移されて同じように小さく奏でられている。世界のどこかに確かにある彼だけの小さな世界が私の前でひっそりと広がっている。海を越えたとて決して浮足立たない、その確固たるささやかさに感動してしまう。ライブは1時間半ぐらい。あっという間だった。心地よい夕日のような音楽だった。
ライブ終了後にドリンクチケットでラムライムを飲む。ラムライムという字面が好きである。ラとムが交互に繰り返されるのがよい。ラム酒にライムが入っただけの代物は、いつぶりにこんな原液を飲んだっけというぐらいきつくて、3口ぐらいで酔っぱらってしまった。その勢いで近場のビストロへ。さらにジャックダニエルのロックとアペロールのソーダ割を飲んで、お店自家製の巨大なソーセージをゆっくり噛んでたべる。後ろのテーブルでは3人の大学生たちが恋愛や就活の話で盛り上がっている。はじめてがまだまだたくさん待ち受けているその前途が眩しいわ…と謎の老婆心を抱けるほど、私の時間はいつのまに過ぎ去ってしまったのだろう。
聞き取れない言葉たち
2日目は朝から鴨川を北に歩いてお目当ての茶寮に。朝の鴨川はとっても気持ちがよい。茶寮までの道すがら下鴨神社に寄る。古い大きな緑の木がトンネルのように覆いかぶさる縁道が素敵。生憎の曇りだが、梅雨前の緑が深まる季節は心を潤す。夏に向かう生命力がみなぎっている。
味わい深い日本家屋の「茶寮宝泉」でお手製のわらびもちをたべる。さすが噂に聞いていただけあってつるりとした舌触りで、初夏にぴったりの艶やかさがおいしかった。長居できる雰囲気ではなかったので、論文を添削するためにいいカフェがないかぶらぶらする。あちこち覗いてみたものの京大前のカフェ「コレクション」に行くことにした。昔、京大に通っていた友人とそこで晩ごはんを食べた。多分ガーリックライスだった。9年前とか、2人とも就活する前の時期だったと思う。その頃をふと懐かしく思い出して、そんなに時間が経ったということがどういうことなのか確かめたくなった。
行く道の途中に中国食料品店があり、1回通り過ぎたものの戻ってきて入る。いつも使っている中国産の黒酢がほしかったことを思い出し、東京より安いかもと思って入ったのだった。予想通り東京よりも安い。レジに行くと、手に持った商品や風貌からいかにも中国ルーツの常連さんらしき人がいたのだが、店員と親しげに日本語で話し始めた。しまった、決めつけている。ジャッジしてしまった自分を心の中で殴る。私の番になった。ナチュラルに中国語で話しかけられた。日本語で対応されると身構えていたのでびっくりする。中国の人だと思われたのか。なんだかうれしい。他者感を与える見知らぬ誰かではなく、店員である彼女とどこか重なる人だと無意識に判断されて微笑まれたことがうれしかったのだと思う。すみません、中国語わからないですと苦笑いして日本語で話してもらう。清らかな日本語を話す人だった。
それから京大の理学部のキャンパスを突き抜けて「コレクション」へ。拡張工事されていて新しいスペースがくっついていた。それでも古いゾーンのテーブルに座る。期待していたほど感じるものは何もなかったが、当時一緒にご飯を食べた友人を思い出し連絡を入れた(友人曰く拡張工事はだいぶ前にされたらしい)。京都には古いカフェがたくさんあるけれど、安くて、店内が明るくて、作業をしながら長居できて、甘いものからご飯までメニューがいっぱいという条件を満たしているところをここ以外知らない。
「コレクション」が好きな理由はもうひとつあって、集う人たちの会話が面白い。この日、私のテーブルの両脇には理系の人たちが座っていた。片方は数学科の博士課程2人組だったのだが、ずっと数式の話をしていて、それがあまりにも面白くて平静を装うのが難しかった。にやにやしてしまう。なぜなら、何を言っているのか本当にわからないからである。日本語なのに全く理解できない。でも彼らにとっては私の分野もきっと同じことなのだろう。同じ言語で同じ文化圏に暮らしているのに、全く理解できない世界がすぐ隣にある。そのことが面白くて耳をそばだててしまう。点の動かし方みたいな話をしているのかなというのが私の理解力の限界だった。もう片方に座っていた人も、私がいる間はずっと万年筆で大学ノートにひたすら計算式を書いて解いていた。本当に解いていたのだろうか。
道教と水
だらだら居座ることに飽きてきたので、ゆっくりと本屋へ向かう。今回の旅の友で持ってきていた本は『老子』で、どうやら道教は孔子へのルサンチマンが発端のようである。孔子リスペクトの私にとってはその教えにやや納得できなかったので、期待していた分がっかりした。気を取り直して、ときめく本を新たに買おうと「出町座」へいく。「出町座」へ着くと、気になっていた映画「悪は存在しない」の上映時間ぴったりだった。何も考えていなかったのに、ぴったりのタイミングに映画館を訪れていることに驚く。そのまま映画を見ることにした。京都とは相性が良くて、来るたびに巡り合わせの良さを感じる地である。
作品は興味深くて見れてよかった。興奮冷めやらぬまま、映画雑誌に記載されている評論を読む。なるほどなと思う。知らない評論家だったが、言語化が上手い人ってこういうことなんだと感服する。映画のなかで印象的なシーンがいくつかあった。「全部はバランスだ」という主人公に対し、評論ではそのバランス自体がもう成り立っていない時代だということを指摘していた。人間と自然の共生なんてもうできない。バランスなんて保てない。それを私たちは知っている。水面下で確かに進行していたすべての歪みは映画の最後にとんでもない展開によって一気に決壊する。押し込めていたいろんな矛盾と崩壊が、最後に一気に放出されるそのシーンはすごかった。何が起こったのかわからないのになぜかわかってしまう。その感覚に呆然とした。本当に悪は存在しない。でも存在している。すべてがおかしい世の中になってしまっていることがどういうことなのか。その戦慄がかけめぐった。
劇中、はっとすることがあった。「水は低いところに流れる」というセリフが象徴的に出てくるのだが、水は道教の核になるメタファーである。なかでも、上流の水は必ず下流に流れ、いくつもの実を豊かに実らすという教えが代表的らしい。要は、自分が何を達成するかという尺度は非本質的であり、多くの生き物の命のもとになる善い行い(=上流のいい水)そのものを志すべきだという。その生き方がタオ(道)。道教がそんな利他的な教えなのだと京都に来る道中で知ったのだが、映画でも上流の水を扱う者は下流に対する責任があるというセリフが出てきた。最近こういうことが立て続けに起こる。ユングのシンクロニシティ的な。
「的な」は、きちんと理解できていないままに使っている概念や言葉をぼやかすために使いがちである。知れば知るほど、知らないことを知る毎日は続く。そんな私は「的な」を使う頻度が上がっている。追いつかないことばかりだ。
見たものについてもうちょっと考えたいと思い、余韻でぼーっとしながら鴨川へむかう。その途中で和菓子屋の「ふたば」を通る。この前実家に帰ったとき、「ふたば」の豆餅をお土産にした。もう閉まっていると思ったら、ちょっとだけお餅が残っていて行列もない。すごい、こんな時間帯もあるんだ。奇跡。とうれしくなって豆餅を2つ買う。おなかはすいていない。その袋をぶらぶらさせながらゆっくり鴨川を下る。上流から下流へ。
消える故郷
いつもならこのあと奈良の実家に帰る。しかし、今回は親が実家を不在にしているため東京に戻る。京都まで来て奈良に帰らない。帰れない。こんなことははじめてである。関西に帰ってきたのに実家に帰らないことがあるなんて。
実家を手放すことが決まった。ディアスポラになるとはこういうことなのだろうか。生まれ育った日本か母国の韓国かの次元ではなく、この世に戻る場所がなくなる。戻る場所がないとはどういうことなのか。それが、私にどんな影響を及ぼすのかに思いめぐらす日がいつの間にか増えた。
キリスト教では、戻る地はそもそもこの世になく、神がいる国とされている。だから生を終えるとき、「神の国に戻る」という言い方をする。「天国に旅立つ」のではない。キリスト教徒にとってこの世に生きることこそが旅であり、生きる限りは流浪の民なのである。故郷は天にあり。
ただ残念ながら、眼の淀んだ信者の私は今はそんな達観した教えを受け止めることができない。私の戻る場所は常に、天国ではなく家族のいる奈良の家だった。そこが私の故郷だ。でも祖父が亡くなったことで、順当にいくと次は親が亡くなるということに目を向けざるを得なくなった。だから余計に、祖父の死は彼自身の死以上の意味を持つものになってしまったのだろう。彼を想って流した大量の涙は、これからやってくるたくさんの悲しさと、拠って立つものがなくなる想像のできなさで流れたものでもあった。
故郷と呼べる確かなルーツや概念を持たない私にとって、それは私を待つ誰かがちゃんとそこにいる、時間を含む小さな空間のことだった。それがすべてだった。故郷とは韓国でも日本でもない。国家でもアイデンティティでもない。それは親であり、家族であり、家だった。私の人生を分かち合ってきた誰かが留まっている場所があるから、私はどこにでもいけた。どこにでもいられた。そういう場所をこれまでは家族が惜しみ無く与えてくれた。でももうそれがなくなる。次は私が何とかしてこしらえていかないといけない。そんな段階に来ているのだと、この数年痛いほど感じてきた。
頭の中を漂ってきたイメージは近く現実になる。20年以上あった家がなくなるというのは、私の根が、これまでが、本当になくなるということなのだ。愛すべき韓国にはおそらく当分戻らない。離れすぎた。もうここにはいられない。去年12月に久々に訪れたソウルでそんな実感を抱いた。ところが今度は日本の家がなくなる。関西に帰るというフレーズが人生から消える。私にとって東京で過ごす理由や日本にいる必然性ももはや一切ない。
そんな自分がこれから何を選ぶのか自分でもわからない。本当にわからない。そもそも何かを選べる状況なのだろうか。人生とんでもないことになってきた。立ち会ったことのない茫漠としたわからなさだけが用意されている。
時代に刈り取られた種子はふとした弾みで道に落ち、そこで一旦根を張る。この先待ち受けているその「弾み」とは一体何なのだろう。背負うものも引き止められる決定打も何もない今、何にも囚われずに生き方を描いてみろと投げ出されてしまった。どこまでも広がっているかのような世界の中に、私なりの小さな点を打てと人生が言ってきている。その自由な果てしなさに眩暈がする。これこそ生きるという手触りである。私にしか描けない点を打つというのは、己の直感を引き受ける覚悟を持つということだ。次の家が見つかるまで。見つけたその先も。
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