DAY17. 豆ごはんを食べた日のこと
突然、戦争が始まった。日本で、あきれるくらいのほほーんと暮らしていた私にとっては、本当に突然に。
右手のスマホには、同じ空の下、遠いウクライナの地で武器配布所に集まった男たちが次々に銃を手に取っていく姿が映し出されている。ダウンジャケットを羽織り、ジーンズを履いた、ごくごく普通の民間人ばかりだ。
次の動画では、頭に火砲を携えたロシア軍の装甲車が信じられない数連なって大通りを進んでいく。きっと数日前までは日常が流れていたはずの、ウクライナの街なかで。
そして、その行く手を阻もうとするひとりの男がいた。丸腰で装甲車の前に飛び出していく後ろ姿に、「天安門事件の再来だ」とコメントがついている。かつて中国で民主化を求めるデモが弾圧されようとしていたとき、戦車の前にひとり立ちはだかった無名の反逆者、タンクマンの姿と重ねられているのだった。
「うわぁ、殺されるぅ!」
その言葉の内容とは裏腹に、なんとも可愛らしいアニメがかった女の子の声。
目の前のパソコン画面では、対戦ゲームの実況が行われていた。リングライトがばっちり当たった瞳をキラキラさせて、彼女は「死にたくない!」だの「次の武器は!?」だのと、ゲームの中の戦闘について嬉々として語っている。
私自身、ゲームはしない。昔、小学生のときにやったスーパーファミコンのスーパーマリオ止まりだ。もちろん、2Dのやつ。ゲーム好きの夫に誘われて一度だけ「桃鉄」をやって盛り上がったことがあるけれど、結局その一回きりで遠のいてしまった。
そういえば、コロナ禍のダイエットにとリングフィットもあてがわれたのに、3日坊主で終わっている。いや、2日坊主だったろうか。
今日はたまたま、夫が関わったという仕事絡みの動画配信を、わけもわからず興味本位で眺めているのだった。前から来る人間をどしどし撃って、ザクザク斬っていくような、リアルな映像のよくあるゲーム。
しかし、あまりに手元のスマホの中とのギャップが大き過ぎて、困惑する。
いや、このゲームが不謹慎だとか、そういう話ではなく。そんなことを言うつもりは毛頭ない。これが今の日本だ。そしてこれからも、こんなゲームを変な気持ちにならずに楽しめる、平和すぎるくらい平和な世界であって欲しい。
いつの日か会えるかもしれない、私たちの子どものためにも。
*
「ねえ、もし今、ここに子どもがいたらさ」
こんな問いかけを、いったいこれまで何度しただろうと思いながら、夫に投げかける。
「うん?」
でも、よくよく考えると、ここ最近増えた気もする。少し前までは、そんなことを夫に想像させることすらきつく、虚しさばかりがつのっていたから。
ここ最近は妙に吹っ切れているのだ。もうあと2回の胚盤胞移植だけにしようとふたりで決めて、不妊治療の終わりに向き合ったから? それとも、流産になってしまったとはいえ、治療7年目で初めて着床して、心拍が確かに動くのを目撃したから……?
あのとき感じた確かな命が、砂粒ほどもなかった希望のかけらを、私に宿してくれたのかもしれない。
「こんな戦争のこと、自分の子どもになんて教えてあげればいいんだろうね」
「どうだろ……」
夫は考える素振りを見せながらも、真面目に答えるつもりはないらしい。目はテレビのお笑い番組に吸い寄せられている。手には、炊きたての豆ごはんをよそった茶碗。私もそんな話をしながら、今日もむしゃむしゃとよく食べている。
2022年2月24日。ロシアがウクライナに軍事侵攻したこの大事件は、間違いなくこれから世界の歴史に刻まれることになるだろう。
その日私は、朝から生協パルシステムに来週配達してもらう食材をいろいろと注文して、次の日の仕事の打ち合わせに向けての準備に追われていた。夫も夜までオンライン会議が続いて、ごはんも遅くになったような日。
「大変なことになったね」
「どうなっちゃうんだろう……」
そう言いあい、不安に思いながらも、そこまで深く戦争について語ることもなく終わったと思う。わが家には、昨日とさして変わらない日常が流れていた。
そういえば昼間、この間の採卵のあとに郵送できた追加請求の支払い手続きもしている。
請求額は22万1200円。今周期はすでに採卵までに12万8425円払っていたから、しめて34万9625円ということになる。採卵も14回目ともなってくるとクリニック独自の減額制度があり、これでも初回の頃よりはだいぶ安くなっているらしい。
しかし今回は成果があった。移植に適した胚盤胞まで成長した卵を、ようやく凍結できたのだ。たったひとつの卵だけれど、ゼロと1とでは世界がまったく変わる。
このひとつの卵を採るのに34万円かかった、とはあまり思わない。そもそも、ここまでのすべての治療費を合計したら、もういくらになるのかわからない。たぶん、わが家の家計的にもあり得ない金額であることは確かで。
そんなこんなも、このあと移植して着床しなければ、すべてが無に返る。これまで何度もくり返してきたことだ。
*
新型コロナウイルスのニュースよりも、北京冬季オリンピックよりも、ウクライナの情勢が連日トップで放送されるようになってきた。
NATOもアメリカもこの紛争に介入することのないまま。しかし何が正解なのかも、その深い背景を知り尽くしていない私には断じることができない。
そして、ウクライナの街が、その文化の軌跡が無残にも破壊されていく様を、ただただ見せつけられている。
遠い国の、関係のない話ではない。ロシアは北方領土問題やらもある隣国、その味方のような動きをしている中国も隣国。株もガソリン代も煽りを受けていて。いまや世界はわれわれが想像する以上に小さく、いろいろなところで繋がっている。
それなのに、「あっという間に3月か」「ひな祭りだな」「ちらし寿司食べたい」「確定申告もいい加減手をつけないと」などと言っている間に。3月4日の未明、ロシア軍がウクライナの南東部にあるザポロジエ原子力発電所の一帯を攻撃した。
欧州最大規模の原子力発電所。もし爆発すれば、その被害は「チェルノブイリの10倍の被害になる」とウクライナのクレバ外相がツイートした。そしてゼレンスキー大統領は、ビデオメッセージの最後をこう締めくくる。
「爆発が起きたら、すべておしまいだ。欧州も終わる」
ウクライナは、世界中からの依頼で代理出産を多く請け負っている国でもあるらしい。生活のために代理出産することを選び、今まさに臨月を迎えようとしている女性たちも、必死の思いで避難しているのだ。
かたや、衣食住にも恵まれて、不妊治療という贅沢をひたすら続けている私。なんなんだろう、世界って。人間って。深く考えてしまえば気がおかしくなるくらい無茶苦茶な社会が、そこにはある。
*
「そういえばさ、このあいだ聞いたんだけど。同級生の子が旦那のDVで離婚したらしい」
夜、布団に入った寝しなに、夫がそんなことを言い出した。
「えー」
大変なことだなぁと思いながらも、どこか上の空だった。そのくせ、思わず聞いてしまう。
「子どもはいたの?」
「ん? どうだったかな……」
どうやら夫の関心はそこではないらしい。同じ事象を見ても、夫婦で目線は違うものだ。
「でさ、全治1か月の怪我をしたらしいんだよ」
夫が本題に入ったようなので、相づちをうつ。
「そうなんだ。大変だねぇ」
「いや、なんかその1か月っていうのがさ、どうなんだろう」
「うん?」
「男が本気で女を殴ったらさ、1か月じゃすまなくない……?」
「え、そこ?」
「全治数か月、下手したら半年とかかかると思うんだけど。1か月って、どんな怪我なんだろ」
不謹慎にも、思わず笑ってしまう。
「いやいやいや、そこ誰も気にしないから! けんかして怪我したらどれくらいで治るかとか、みんな知らないから。発想がワーストすぎるんですけど……!」
漫画好きな夫がよくヤンキー漫画を読んでいるのを、「またワーストなの読んでる!」と茶化しているのだけれど、そんな意味で。しかし、その発想はなかった。夫は大昔のやんちゃな頃の古傷で、鼻が若干曲がっている。あの傷はいったい全治何か月だったのだろう。
私はひとしきり笑いのツボに入り、夫は腑に落ちない様子だったけれど。今日も「おやすみー」と平和に眠りにつく。
もし今、本当に生きるか死ぬかの世界にいたら。私もきっと「もっと生きたい」と切に願うのだろう。こんな生ぬるい世界にいるから、ときどきこのままふっと消えてしまいたいような気持ちになるのだ。
いずれにしても。もし、これから私たちにも子どもができたら。その子にとっては、生まれて初めて触れる価値観が私たち夫婦のものになるわけで。
正直、ビビる。自信なんて全然ない。このコロナ禍のいろいろだって、ウクライナとロシアのことだって、いったいどう伝えればいいのか途方に暮れてしまう。
戦争なんてもちろん起こってほしくないし、核をその脅しに使うなんて、そんなバカ極まりない話が現代でリアルに起こるのかと思う。でも、ものごとにはすべて多角的な視点があってしかるべきで。自分の子どもには、誰が悪いとか一方的なものを押しつけたくない気持ちもあったりする。
私はプーチンではないし、その背景に詳しくないから、彼がどれだけ追い込まれてこんな行動に至っているのか、説明することはできない。悪役にも悪役の理屈があると言われれば、たぶんそうなんだろう。
一方で、彼の暴走を止めるためには軍隊とか武器とかの支援が、やっぱりどうしても必要になってくるのだろうけれど、それもどこか違和感を覚える。台湾は今回のウクライナの事態を参考に、有事の際に動員する予備役の戦力強化に取り組み始めているらしい。
そのすべてが、そこはかとなく嫌な方向だなぁと思ってしまう。平和な国で平和に暮らす、脳みそお花畑の私には。
*
そこにどんな理屈があろうと。私は、あなたがこれから生まれてくるかもしれない世界が、少しでも不安や不自由なことがない世界であって欲しい。
誰がいい悪いでもなく、何が正しいか正しくないかでもなく。つまりは、そういうことだ。あなたのためなら、たぶん私ももう少しがんばれる。
これは、エゴなんだろうと思う。こんな不確かな世界に、無力で呆然としたまま、あなたが生まれてくることを望むのは。この年になっても、まだあきらめきれないことも。
エゴでいい。それでもいい。夫が前にくれた珍しく真面目?なLINEを、私は支持してしまっている。
〈まあ、仮に子どもが将来そう思ったとしても、そこまで今の俺が考えてあげられないよね笑〉
〈まだ生まれてもきてない子どもが、未来に思う気持ちまで考えてあげられるほど俺は人間できてないし、それが自分勝手だって言われるなら、まあそうなんじゃない? 俺は自分勝手だから…〉
〈俺は今生きてる俺たちがどうしたいかだけしか、今のところは興味ないかな。生まれてきてくれて、俺が親だったことに文句があるなら、いくらでもゴメーンって言うよ笑〉
〈子どもがしあわせかどうかなんて、結局は人でしかないでしょ。俺は君の子どもに生まれてくる子は幸せだなーって思ってるよ。父親が俺だけど笑〉
世界でたったひとり、夫がそう思ってくれているだけでよかった。あとはそれを、私も全力で実現していくだけだ。
どうか、あなたと会うことができますように。あなたがこの世界を心から楽しんでくれますように。この世界で、あなたのしあわせが見つかりますように。
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