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DAY22.  空蝉の記憶

 みーん、みんみんみんみんみいぃーーん……。いつもの川べりを犬と歩いていたら、嘘みたいにど定番な蝉の声が聞こえてきた。

 まだまだ鳴き始めという感じ。これがだんだんと層をなして、いつしか途方もない多重奏に、シャワワワワワ……とした「音」へと変わっていく。一年前に全身で浴びたその音は、いまだ私の耳の奥にこびりついている。 

 あの夏、私は初めて自分の中に小さな命を宿し、それが消えゆくのを呆然と眺めていた。そうして8か月後に、2度目の流産。春の芽吹きとともに最後の日々を過ごした散歩道、草花一つひとつの淡い色みも、来年また思い起こすことになるのだろうか。

 世界はますます混沌としている。ロシアのウクライナ侵攻はいまだ先行きが見えないし、中国やアメリカの動きもそら恐ろしい。コロナウイルスに至ってはすでに第7波、変異株のデルタだオミクロンだと言っていたら、さらに亜種のBA.1だのBA.2だの。そうかと思えば、今度はサル痘ウイルスなんてものまで出てきて。

 7月8日には安倍晋三元首相が銃殺された。名もなき40代の中年男に、いとも簡単に。賛否両論、なにかと罵詈雑言を浴びせられながらも歴代最長となる長期政権を築いて、去年の夏には招致を主導した東京オリンピックの開催も陰で支えて。怒涛が過ぎる。

 棺の彼に頬ずりをして涙していたという昭恵夫人に、なぜか自分を重ねてしまって、胸の奥がぐうっとなった。いろいろとお騒がせ報道は多いけれど、きっと根が天真爛漫なのだろう。彼女のバイタリティ、その気丈さの根っこには、望んだ子どもに恵まれなかった哀しみもあるような気がして。なんとも勝手な感情移入。

 そんな私は安倍氏が亡くなる2日前、流産から2カ月を経て早々に採卵周期を開始していた。時代はこんなにも目まぐるしく移り変わっているのに、私はまたスタートラインに立つ。粛々と。これまでの痛みや辛さや我慢、手間やストレスや四苦八苦――すべての努力が無に返ってしまった徒労感の中で。

   *

 命の選択。その言葉を聞くたびに、なんとも空虚な気持ちになる。外野は好きなことを言うし、勝手に言えばいいけれど、当事者は必死だし、必死でいいじゃないかとも思う。

 不妊治療? そこまでして子どもが欲しい? 体外受精? 神の摂理に背く行為なのでは? とかとか。どうでもいい。私は私。あなたは、あなたの好きにして。

 とはいえ、まだ日本ではその議論に決着がついていないらしく。2022年7月現在、着床前診断「PGT-A」には“研究段階の技術”という但し書きがついている。参加できる条件は、移植しても2回連続で妊娠できなかったか、これまでに2回以上流産しているか。

 私は最初の流産で一度参加資格を失い、2度目の流産でまた参加資格を得た形となった。

 体外受精や顕微授精で得られた受精卵が胚盤胞まで育てば、その一部、将来赤ちゃんになる部分ではなく胎盤になる「栄養外胚葉細胞」をいくつか切りとって、その染色体に異常がないかを検査するのだという。

 調べた細胞の染色体数が全部正常なら「正常胚」、全部異常なら「異常胚」、そしてその間に「モザイク胚」がある。とった場所によって異常の割合が多かったり少なかったりするモザイク胚は、育っていくうちに問題のない子どもが生まれる確率も、あるとか、ないとか。その理屈からいくと、正常胚も異常胚も100%ではない。

 しかしそうやって染色体を検査するというと、すぐに「障害児を排除しようとしている」の発想に結びつけられる。彼らは「流産の確率を減らす」ことにはあまり触れない。母体にもその心にも否応なくストレスを与える流産は、なぜか軽視される。もしかして、「母は強し」的な発想を曲解していたりするのだろうか。

 何ごとにも100%はない。まだ研究段階であり、貴重な受精卵をある意味傷をつける行為でもあり、誤診の可能性も大いにあり、正常胚だからといって流産しないとも限らない。ないないづくしのPGT-Aに本当に参加するべきなのかどうか、正直私は迷っていた。

 たぶん、まだまだこの先も不妊治療を続けていくつもりなら、参加しなかったかもしれない。私がPGT-Aへの参加を考えだしたのは、たぶん悪足掻きだ。次の移植をしたらもう最後にしようと決めたことに対する、本当に最後の最後の未練たらたらな足掻き。

 それを自覚していながら、それでも思い切れず夫に判断を仰いでみたりする。いろいろとマイナス要素を見つけては、それをぶつけながら。実際にPGT-Aをした群とそうでない群を比べたら、最終的にはそこに差がないかもしれない、むしろしない方が良いかもとかの、研究論文だったりのネット解説を。

「――だから、同じ検査結果の割合を計算式で当てはめてどうのこうの言うのは違うんじゃないかな。そこには、その選択をした人間の心情が入っていないから」

 人間の心情。先ほどから理路整然と自分の論を述べる夫から意外な言葉がこぼれて、なるほどと頷いてみたりする。

「確かに、検査のために細胞をむしることで、妊娠率や出産率が下がるというのは、想像できるよ。ダメージがあれば、妊娠率も上がるわけないじゃん。でも、それとPGT-Aをやるやらないの判断は別問題で……」

「私が一番気になるのはね。一度に6個も7個も採卵できる人が、そこで一番良いものを見つけるのには有効だと思うんだけど、私みたいに毎回1個採れるかどうか、胚盤胞にもなるかどうかで、その貴重な1つの胚盤胞を、異常胚だモザイク胚だって判断されて、永遠に採卵することになるんじゃないかってこと。40歳を超えたらほとんどがモザイク胚だなんていう話もあるし」

「期間を決めてやったらいいんじゃないかな。たぶんそこがポイントになると思うんだけど。もし流産したら、そこからもう一度妊娠のチャレンジをするまでに半年かかったりするわけでしょう。その分だけ、半年の間にできた胚盤胞を検査に出すとか。毎月採卵できれば、6回のチャレンジができるわけでしょう?」

「そうね……」

 とりあえず6回採卵しようとか、簡単に言うよなぁとは思いつつ。確かに夫の言うことにも一理はあった。

「その間で正常胚が1個もできなかったら、モザイク胚でも未検査の胚でも、最後に移植するというのは、どうだろう」

 この間の採卵で2つも成熟卵が採れたのは、私にとっては快挙だった。そのうちの1つは無事に胚盤胞にまでなってくれて、凍結保存している。本来ならばその卵を移植して終わりにしようというところだったのを、PGT-Aに踏み切ろうかどうかと逡巡しているのだ。悪足掻き。

 もしかしたらその移植で、無事に出産に至れるかもしれない。でも、最後にするならばPGT-Aの正常胚がいいんじゃないかとも思ってしまう。

「俺はさ。PGT-Aをするしない、どっちも推奨するつもりはなくて」

「どっちがいいとか、ないの?」

「ないよ。だってPGT-Aを選んだからって、『このモザイク胚はちゃんと赤ちゃんに育つのかもしれない』『検査してなかったら着床したかもしれない』とかって悩むだろうし、選ばずに流産したら、『正常胚じゃなかったからだ』ってなるわけじゃん。だったら、両方やれば?って思う。たとえば半年だけ、最後にPGT-Aをやってみる。もともとあと1回って言っていた中で、やることはやったねって、思えるかもしれない」

「私たちはやり切ったって? 思えるかな」

「まあ、後悔っていうか、ずっと心にひっかかる可能性はあるのかな」

「そうだよね……」

「こんなこと言っちゃいけないけど、最後にモザイク胚を移植した場合、体に障がいがある子が生まれてくる可能性もあるわけでしょう?」

「まあ、そういう考えはよぎるよね。無事に生まれてくるまでのストレスは、すごいものがあるかも知れない」

「でもさ、正常胚だってそうだと思うんだよ。検査でむしったから、もしかしたら何か障がいがって気持ちになるかもしれないじゃん」

「そう思うかもね。そういう可能性が高くなるってデータは出てないと思うけど」

「どちらにしても、もしそうなったら。そのとき俺たちすごい後悔すると思うんだよね。もともと正常胚だったのに、正常に生まれてくるはずだったのに、検査をしたから、俺たちのせいでこうなっちゃったんだなって。でもさ、それは申しわけないけど、覚悟だと思っていて」

「そうだね」

「今、とにかく俺が知りたいのはさ。何が俺たちの不妊の原因かどうかなんて、年齢以外はいろいろ体とか調べても、あんまりわかってないじゃん? でも、もしその正常胚って言われるものが存在するんだとしたら……」

「うん」

「『これが正常胚です』っていうのに、一度出会ってみたくない?」

 思わず笑った。そうね。一度、出会ってみたいかも。

 いろいろ、いろいろ話し合ったけれど。結局はその一言が私の中でキラーワードになって、右往左往していた気持ちが定まったのだった。なんだそりゃ。

 ただ、このときはまだ、未検査胚の移植が先か、PGT-A開始が先かという選択肢があった。でも、そのすぐ後で道は自ずと示されることになる。

「……いやいや、CD138で陽性が出ていますからね。移植はしばらくできません」

 PGT-Aの夫婦カウンセリングで医師にそう言われて、夫婦でポカンとしてしまった。

「まずはこれから出るEMMA/ALICEの結果を見て、投薬治療するところからですね。再検査も必要になります。ただその間、採卵することはできますから、PGT-Aを開始して良いと思いますよ」

 このあいだ、これまた最後の足掻きで受けた子宮の検査に、私はまんまと引っかかかったのだったーー。

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