DAY28. 遅れてやってきたひなまつり
女の子、だった。
流産手術の後、絨毛検査でわかったのは、今回の流産がやはり受精卵の染色体異常によるものだったということ。そして性別だった。何番目の染色体がトリソミーだったかとかなんとかは、もう覚えていない。
2度目に流産したのは男の子で、今回の3度目は女の子で。1度目は検査ができなかった。
性別を知らされると、とたんに胸が詰まるような実感が押し寄せてくる。それでもやっぱり、知りたかった。
私たち夫婦は、2023年の春が訪れる少し前に、およそ2か月をともにした「女の子」をなくしたのだ。
*
〈家に来たいって話だけど。15日の確定申告終わらせたあとの祝日あたりでどうかな?〉
私としては、1万歩くらい譲ったつもりのメールだったのだけれど。
〈渡したいものがあるので、もっと早くこっちに来れませんか?〉
母は相変わらずで。私は半ばキレ気味に〈じゃあ、明日行きます〉と返したのだった。そこまで考慮してくれないのなら、こちらもそのつもりで。
流産の報告とともに伝えた「しばらくそっとしておいてほしい」という私の言葉は完全にスルーされていた。突然わが家に来たいと言い出したのも、やはり家になど興味はなかったらしい。
流産手術を終え、身も心もずたぼろなタイミングでの年度末。詰め込まれた仕事の合間に、私は締め切りギリギリを目指して確定申告の書類整理を進めていた。
〈明日ですね。午前中に到着するように来てください〉それだけ返信が来て、息をのむ。胸の奥からなんだかぷすぷすとしたものが込み上げてきて、そのまま脳みそが沸騰するんじゃないかと思った。
そうして迎えた3月4日の土曜日。“午前中”の指定を守るべく休日の朝っぱらから車を出してくれた夫と、実家を目指す。
「昼は一緒に食べるのかねー?」
里帰りついでに名物のあれやこれやを食べるのだと夫は楽しそうに計画していて、私は少しだけ救われる。
「午前中に来いって、昼から用事でもあるのかね。そうしたらランチはふたりでゆっくり食べられるかなぁ?」
そんな嫌味を言いながら、私はまた大きめのため息をついた。実際はそんなにゆっくり名物を楽しむ余裕など、あるのかどうか。
渋滞に巻き込まれて3時間半ほど。ようやくたどり着くと、母の満面の笑顔に出迎えられた。私とそっくりらしいこの笑顔に、根拠のない元気と勇気をもらうこともあれば、なんとも言えない気持ちにさせられることもある。今日は後者だ。
「お疲れ様。渋滞、大変だったみたいねぇ」
「うん。遅くなっちゃったけど、時間大丈夫なの?」
「大丈夫よ。お昼はみんなで港に食べに行こうかと思って」
「……そっか」
嘆息をのみ込みながら靴を脱ぐ。「こっちこっち! まずはお線香をあげてね」と手招きをする母。夫とふたり、そろそろと招かれた部屋に入ると、仏壇の横には真っ赤な段々飾りが据えられていた。
「……」
無言のまま仏壇の前に座し、マッチを擦ってろうそくを灯した。その火を線香へ移していると、背後で嬉々として夫に話しかける母の声が耳に入ってくる。
「これね、この子が生まれたときに買った、この子のひな人形なのよー。見てもらおうと思って残しておいたの!」
ついこの間、弟夫婦と甥っ子姪っ子たちが来て、この7段飾りをたいそう喜んでくれたのだという。ご丁寧に、ひな壇の隣には5月人形まで飾ってあった。
「もう、4日だけどね……。行き遅れるんじゃなかったっけ」
お線香をあげ、チーンと鐘を鳴らし拝んだ後に、ぽつりとそれだけ言って夫も仏壇の前へとうながす。私は母もひな人形も直視することができずに、マスクの下で大きく息を吸った。
助手席に母を乗せた父の車の後部座席に夫と乗り込み、近くの漁港へ。花粉ではごまかしきれない涙がぽろぽろと落ちてきて、私は静かに窓の外を見遣る。
今日もまだなんとなくマスクをしてきていて良かった。4月からは日本でも、もうこのマスクは不要になっていくらしいけれど。やはりまだ少し心もとなく思うのは、ウイルス云々ではないのかも知れない。
車を降り、気づけば夫が母の話し相手になっている。その前をずんずん行く父。私はそれらを少し遠目に息を整え、後ろから涙を乾かしながら歩いた。
昼時のにぎわいに満たされた食堂街に身を置くと、自分のささくれだった胸の内もそこに紛れていくような気がする。
若い男女のふたり組も、夫婦らしきふたりも、幼い子を連れた世帯も、女子会や男子会も。皆それぞれの人生に悩みのひとつもあるはずだが、どの顔も実に楽しそうにこれから舌鼓をうつ海の幸に思いを馳せている。ように見えた。
少し並んだ後に4人席が確保でき、私はマスクをとる前にトイレへ立つ。冷たい流水に手を清めながら、鏡の中の自分と目を合わせた。うん、大丈夫。
席へ戻ろうとしたところに父が歩み寄ってきて、「これ」とカードを手渡される。その憂いに満ちた、はにかんだような顔が忘れられない。父はそのままトイレへ向かい、私は手元のそれを眺めた。
私の名前が記された、ゆうちょのカード。去年だかに突然「終活を始める」と言い出した父が、とにかく作れというのに従って送ったものだった。私の嫌な予感は的中したのだ。やっぱり、ね。
ひとり席へ戻ると、待ってましたと言わんばかりの母が「この間の話だけどね……」と始めるのを遮った。「その話は、あとで家でしよう。ごはん食べてから、ね?」
横では夫がきょとんとしている。まずは、腹ごしらえしましょ。「今日はカキフライ定食とアジフライ定食、分けっこしようか?」と言うと、「いいねぇー!」と夫はすぐに大賛成した。
*
ダイニングテーブルでコーヒーを飲む3人を背後に、父はもう役目を果たしたとばかりにひとりソファでテレビに向かっていた。
「お父さんもね、願ってるんだって。あなたたちの……ね?」
そうして始まった母の話すすべてが、地雷だった。私にとって。また反抗期でも来てしまったのかというくらいに。
「いつかあなたたちに残そうってことでね、生前に少しずつお金を入れていこうって、お父さん考えてたのよ。でもね、この間の話を聞いて、これを生きたお金にしてもらいたいなと思ってね……」
いわゆる非課税の生前贈与。年間110万円ずつ渡せるから、それを不妊治療の続投に使って「生きたお金」にしてほしいのだと。それを感動話のように語る母にどうしようもなく脱力してしまうのは、私側の問題だろうか。
どこから話せばいいのか、世界線が違い過ぎて気が遠くなる。
仕事も人間関係も調整しながら、タイミング法も人工授精もさんざん試して、採卵だけでも19回、体外受精、顕微までして移植は7回、流産も3度くり返して。「もう今回で治療を終えたいと思っています」と、彼女には確かに伝えたはずだった。
この8年、自分たちでも考えたくないくらいのお金をかけて、時間も身も削って。保険適用外の年齢である私は、去年だけで医療費総額が300万円を優に超えている。
110万円があっという間に溶けてなくなる世界を母は知らないし、その金が「生きる」ことなど早々ない私の現実もまだわかっていないのだろう。でもそれ、子どものいない私たちの未来に使うお金は「生きない」ってコト!?と、心の中でつっこまずにはいられない。
私が絞り出すようにぽつりぽつりと話し伝えようとすることは、一向に母に届かないのだった。
母の話は止まらない。田舎町の整体院がまことしやかにブログに語る「子宮の血流をよくすることで子宝に恵まれる」話を、そのプリントアウトとともに披露され。男性器を模した御神体にまたがれば子宝に恵まれる神社の話を聞かされるのは、もうこれが3度目で。
こちらが不妊治療までしていたことを明かしたら、かえってなんの衣も着せずに、母は真っ向から私たちの子づくりを励ましてくるのだった。衣を着せてずっと言われ続けたのもまた、真綿で締めつけられるようだったけれど。
「私たち、お金がなくて治療をやめるって言ってるんじゃないんだよ……」
「そんなこと言ってないじゃない!」と笑う母。
「治療に使えって言われてお金もらっても、それはプレッシャーでしかないから……」
「そんなこと」
「治療を続けるのはね、むしろ簡単なんだよ。どこで辞めるのか、どこであきらめをつけるのかを決めるのが、一番大変なのに……」と絞り出したところで、不覚にも嗚咽がもれた。
実家で涙を落とすことなど、大学受験のとき、こっそり風呂で泣いた以来だったと思う。思えば四半世紀ぶり、笑ってしまうほどの年月が経っている。
母もまさか、私が泣くなんて、しかもそれがうれし涙じゃないなんて、つゆほども考えなかったのだろう。
「そんな、泣かないでよ……なんだか泣かせに来させたみたいじゃない」
「いや、そうとしか」と言うのはのみ込んだ。しかしこの間、弟が来たときにまた母を諭してくれていたらしく。「お母さんはデリカシーがないよ、なんて言われちゃってねぇ」と夫に笑いかけるのには、思わず口が出た。
「いや、デリカシーがないことに、いい加減気づいたほうがいいよ……?」
再びの反抗期よろしく泣きじゃくりながらけんか腰の娘に、母はとうとう閉口する。
隣で苦笑していた夫が、涙にのまれて声が出なくなった私に代わって話し始めた。至極穏やかに、落ち着いた大人のトーンで。
「あの、僕らも、この8年間何もしなくてってことじゃなく。結婚して1、2年で、すぐに病院にも行って、彼女もいろいろ調べてきて。これまで本当に、あらゆることを試してきての今、なんですね」
「もちろん、彼女に相続をしたいというお話は、ぜひしてあげていただければと思うんですけど。でも、このタイミングでいただくというのは……これをもらうと、僕らも治療をやめることができなくなってしまいますし」
すかさず「それは2人で決めてもらえばいいのよ!」と言い出す母を、夫がやんわりいなす。
「はい。そうなんですけど、それはやはり彼女にとってもプレッシャーというか。ご心配をおかけしていると思うんですが、お金に関しては、本当にご心配いただかなくても大丈夫で。これまでも僕らでどうにかやりくりしてきたことなので。今回は、そういうことじゃないんですよ」
「でもね……」と、あくまで納得がいっていない顔の母に、「それに、僕らもこれですべてが終わりとあきらめて、子どもができる可能性をシャットアウトしているわけではないんです」と夫が言う。
「そうなの?」と、とたんに明るい声を出す母。「はい。でも、ここで一度ひと区切りをつけようと思っていて。諦めたらできた、なんて話もありますからね?」「そうよねぇ!」
最後は、不妊治療中は絶対に聞きたくないあるある慰め言葉の1位2位を争う「諦めたらできる」話までがくり広げられたけれど。なんとか決着はついた感。
「とにかく、私たちで決めさせて」
私はそれだけ言って、涙で視界をにじませながら席を立つ。「もう帰るね」とばかりに玄関に続く階段をとんとん降りていく。ふり返りもせずに玄関を出ると、昼下がりの眩しい陽にさらされた。
「じゃあ、この子をよろしく頼みますね」としおらしく夫に言う母と、相変わらず無言でその横に立つ父。その視線を背中に受けながら、車を停めた駐車場に向けて足早に歩き出す。
あとから駆け寄ってきた夫が、そっと肩を抱いた。またぐっと熱い涙が込み上げてきて、目からぼろぼろとこぼれ落ちる。
角を曲がり、父と母の視線から逃れてやっと息をついた。
「はぁ……」
「お疲れさま」
労いの言葉を言う夫を見上げると、少し困ったような顔をしていて。でも私は、心の底から安堵する。
「……雛人形。このタイミングでわざわざ残して見せてくるとか、サイコパスじゃない?」
わざとらしくしかめ面をして言うと、「また言ってる!」と夫が吹き出した。それを見て、私も笑う。ぐじゃぐじゃの顔で。
「だって。流産しちゃったのは女の子なのにさぁ……」
「いやいや、それはお母さんも知らないから」
冗談ともつかぬことを言って、また涙が出てくる。でも今度は、嗚咽に声を詰まらせることはなかった。
帰る道中も助手席で涙が流れるのに身を任せ、軽口をたたいて。やるせない現実を笑い飛ばしながら、流れていく景色を眺める。
結果、定食でパンパンになった腹の中身だけを抱えて実家を後にし、夫が楽しみにしていた名物にはありつけなかったけれど。信じられないくらい目元を赤く腫れ上がらせたまま、私はアウトレットで春服をごっそり買い込んで帰ったのだった。
笑う門には福来たる。泣き笑いしながら服買う私。自分は結局白Tシャツ一枚しか買えなかったと文句を言いながら、私の「満足!」に「よし!」と笑う夫。なんだかんだ平和だ、今日という日も。
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