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DAY18.  小さな小さなきらめく卵の物語

 昨夜遅くまで降り続けた雨の余韻をそこかしこに残す街を、真正面からの太陽がさやかに照らし出している。いつものクリニックへ向かう助手席で思わずスマホを取り出して、カシャーンカシャーンとその光景を撮ってみた。

 2022年3月19日。今日という日は、記念すべき日になるだろうか――密かにそんなことを思いながら。

「ちょっと、何撮ってんの」

 運転席の夫が怪訝な顔をしてこちらを見やる。

「え、いや、なんとなく……」

 笑ってごまかすけれど、本当は自撮りでクリニックに向かうふたりの写真も撮りたいくらいだ。今日は、もうラスト2回にしようと決めた移植の1回目。これがもしかしてもしかすれば、いつかこの日は特別なものになる。

「前のバイクのおっさんが、なんか撮られてる!って、めっちゃこっち見てたよ」

「え、うそ。ヤバ。自意識過剰すぎるよ、おじさん……」

 確かに写真を見返すと、バイク便みたいな風貌のおじさんのヘルメットが、3枚目で少しこちらをふり返っている。私はそそくさとスマホをしまって素知らぬふりをした。

 クリニックが指定したのは朝8時から9時の間の来院。犬の散歩も少しだけして7時過ぎには家を出たのだけれど、睡眠時間は4時間ほどになってしまった。気を抜くと意識が遠いてしまいそうなほど眠い眼に、前方から差し込む朝陽が妙に美しく感じられる。

 本格的に体外受精を始めてから、今日で6回目の移植手術となる。受精卵の初期胚を移植したのはそのうちの2回。より着床の確率が上がると言われる5日ほど育てた胚盤胞を移植するのは、今回が4回目だ。

 精子と受精させる卵子を採る採卵手術はすでに14回していて、どうにか移植に至った受精卵は、そのうちの6つ。今日を入れてあと2回の移植で不妊治療は終えると決めたものの、今回がだめだった場合、これからもう1回の移植に至れるのか、それさえも自信がなくなってきている。

 朝いち、少し待たされつつも血液検査をして、無事に今日移植手術ができることが決まったのが9時50分頃。そこから12時半までは昼休憩となった。

 ランチに選んだのは、夫が「うまそうな老舗のパスタ屋みつけた!」とうれしそうにしていた店。本当は、移植がうまくいくジンクスがあるらしい渡り蟹のパスタでも食べようかと「今回はパスタにしない?」と提案したのだったが、そんな小洒落たものはなかった。

 選んだのは、名物らしき「タラコとウニとイカ」のパスタ。少々ボリューム満点すぎたけれど、これで良かったなぁとしみじみ思う老舗洋食店の味わいだった。

 タラコは子宝ぽいし、ウニは卵巣だか精巣だからしいし、イカはスタミナつけてくれそうということで。縁起は良い、はずだ。

  *

 今日はどうやら、おっちょこちょいな看護師がいたらしい。おっちょこちょいって死語だろうか。でもなんだか、その語ズバリな感じなのだった。

「6番のベッドですね……ん? ん?? あ、9番ですね!」

 そこから、始まっていた気がする。その序章が。

 ナースセンターの受付でお互い顔を見合わせて、思わず笑みがこぼれる。ロッカーのカギについた番号札を上下にひっくり返してみて、9番を確認。あわや知らん人のベッドに勢い突撃するところだ。

 移植手術は14時に1番から始まった。「難しい人がいたら長くかかるかも」と言われたわりにはサクサク進んで、14時17分を過ぎた頃にはもう7番が呼ばれている。慌てて一度帰った夫にLINEをした。

〈早いねー〉

〈まだ散歩中でーす〉

〈急いで帰んなきゃ〉

 今日はまた夕方から雨が降るというから、わざわざ犬の散歩に一度戻ってもらったのだ。また車で迎えに来てくれるという。

「今週末から、洗濯は俺がするから。やり方教えてよ!」

 突然夫がそういい出したのは、3日ほど前のことだ。もう、ほとんど動かないほうがいいというような大げさに書かれた「移植後の注意事項」の一覧をツイッターで見かけて、驚いて夫に見せた次の日だった。

「ゴミ出しもするから教えてね。君はごはんと洗い物だけお願い。あとの家事はやるから!」

 時代に逆行する家事やらない夫宣言をしていた彼だけに、「ええ~? できるかなぁ?」と、思わず茶化す。結婚して9年、洗濯機の使い方もゴミ出しの日も知らない夫である。

「この前は、俺が犬の散歩しかしなかったのがいけなかったのかもしれないから」

 最後にぽつりと出たひと言に、普段は見えない夫の無念を感じてしまった。半年前の初期流産は、夫にとっても何かしこりが残るものになっているのだろうか。

 ともかく、そんなこんなで今回は移植後にお姫様生活をさせてもらえるらしい。予定では。

 車の送り迎えに関しては、これまでも彼の体の空く限りずっとしてくれている。普段の通院では申し訳ない気がして、ときどき「帰りは電車で帰るよ」と言ったりするのだが、それだけはいつも頑なだった。彼なりの、この治療への参加の仕方なのかもしれない。

 8番も呼ばれたあと、パタパタと看護師の足音がして「次だ」と身を固くする。その直後。

「10番の方~。お手洗いに行って準備してくださいね~」

 隣のベッドに行ってしまい。

「はぁーい!」

 そこから元気のいい返事が聞こえて、カーテンに仕切られたベッドの中、ひとり茫然とする。

「あっ……!」

 小さな悲鳴のようなものが聞こえて。

「ごめんなさい! 9番だ! もうちょっと待っててね!!」

「あはは。はぁーい!」

 そんなやりとりがあった後、目の前のカーテンが開かれたのだった。思わず笑う。緊張している暇もなく、私の出番となった。指示通り術前のトイレを済ませてショーツを脱ぎ、術着だけになって手術室前の簡易椅子に腰かける。

 待っている間、カーテンの下から「10番の方」の足がちらりと見えた。すらりとした、きれいな足。声の感じからして、きっと若くて元気も良くて、これから体外受精をすればすぐに妊娠するような人なんだろうなぁ。などと、ぼんやり思った。

 まもなく手術室の扉が開き、呼ばれる。採卵時は毎回ここで体重を測られるのだけど、移植だとそれがないらしく。そんなことに少しほっとしながら身元確認をして、手術台へ上がった。

 てきぱきとセッティングが終わり、早々にズボッッと膣に冷たいものを入れられ消毒作業に入る。そのままの状態で、いつものように生年月日と名前を言わされた。せめて入れられる前に言いたいのだが……この状態で言葉を発せさせられるのは、なかなかきついものがある。 

「あちらのモニターを見てくださいね」 

 言われるがまま左手上の大きな画面を見ると、先ほど培養士に説明を受けた胚盤胞の姿が映し出された。

 小さな小さな私たちの卵は、なんとも健気な姿でそこにいた。そして近づいてきた大きな管に、すうっとやさしく吸い込まれていく。

「今からこちらへ持ってきますからね。このモニターを見ていてくださいね」

 今度は、すぐ右手の小ぶりなモニターに目を向ける。「ここが子宮です」と示されたもやがかったところへ、ほのかな光を放つ培養液とともに卵がスススッと注入された。

 私のお腹の中、子宮の真ん中できらめくつぶらな卵。確かに、その姿を目に焼きつける。

 いつか、自然妊娠ではなく体外授精であることをこの子に話すときがきたら、言おうと思う。私はあなたがきらきら光る小さな小さな卵だったときから、ずっと見守ってきたんだよと。

 たぶんこれは、体外授精でしか見守ることのできない奇跡の瞬間だ。

 しかし本当に、一瞬だった。麻酔などはしていないが、今回はあまり痛みも感じないまま、驚くほどすんなりと移植が完了した。

 起き上がると、その場で医師から今回の卵についてや内膜の厚さなどが書かれた紙を手渡される。卵のグレードは「C」だという。妊娠率は35~44%とあった。このクリニックの基準で、受精卵の形などとともに実年齢が加味されるため、43歳になると最高でもCらしい。

 胚の染色体数などを詳しく調べるPGT-Aはしていなかった。その形や見た目だけでは、実際に生まれてきてくれる子かどうかはわからないというけれど、いざ「C」を突き付けられると「これがAやBだったらなぁ……」と、つい考えてしまう。

 ただ、Aでも妊娠率は55~70%とあった。これを「確率は半分以上ある」と捉えるのか、「良くてもこの程度なのか」と捉えるのかは人によって違うだろう。ここは「Aでもそんなもんだから、Cでもたいして変わらない。あとは出たとこ勝負だろうよ」と思ってみる。

 ベッドへ戻り、安静時間に入った。移植手術は採卵と違って、ここで何か突きつけられないから気楽だ。卵が採れなかった、変性卵だったの報告を受けたりせずに、たった今お腹に迎えた卵の存在を、ただただしみじみと想う時間。

 また夫にLINEで報告をしたりしながら、15分ほどだろうか、結構長いことのんびりした後、トイレでの出血してないか確認をするよう看護師に促される。

「大丈夫だったら、着替えて出てくださいねー」と言われるがまま、トイレへ行き、ロッカーから服を出して着替え始めた。

 背後で、「10番の方〜」と声がした。

「はぁーい!」

 あの元気のいい返事が隣から聞こえてきた。彼女も移植を無事に終えたらしい。

「あれ!? もう着替えちゃってました??」

 看護師の驚く声が聞こえてきて、「えっ!?」と10番さん。移植初めてなのかな、せっかちだなぁとニヤニヤしてしまう。そしてなんだか、2人の会話が噛み合っていない。

「……え!!!」

 ちょうど上に長袖のインナー、いわゆるババシャツを着たところでふとふり返ると、そこには先ほどの看護師の顔があった。

「あ、あの……」

 驚いてアワアワしていると、隣から「10番こっちでーす!」と声がした。

 「ああ、ごめんなさい!」と看護師はカーテンを閉める。ほんと、おっちょこちょい……。ババシャツ姿を見られたショックもありつつ、あまりのことに笑いが勝った。またニヤニヤをひとり噛みしめる。

 トイレに行くよう指示された10番さんが、また「はぁーい!」と勢いよくカーテンから飛び出していく気配を感じた、そのとき。はらりと足元に何かが落ちた。

「あ……」

 ちょうど着替え終わった私の足元のすぐ先に落ちてきたのは、彼女の胚移植情報の紙だった。彼女は気づかずにトイレへぱたぱたと行ってしまう。

 そのアルファベットだけが、目に入ってしまった。そして、いつのまにか勝手に彼女の像をつくり上げていた自分を恥じる。初期胚か胚盤胞かも、年齢もわからないけれど、彼女の判定は「E」だった。

 ハッと目をそらして、また近くを通った例の看護師に声をかける。

「あの! 落としちゃってるみたいなので、教えてあげてください……」

 遠くから落ちている紙を指差すと、「ああ」と納得してくれたので、そのままそそくさと部屋を出た。途中、トイレから戻る彼女とすれ違う。こんなに元気はつらつそうな彼女も彼女で、また闘っているのだ。この不妊という、病ともいえない得体の知れないものと。

   *

 帰り道、助手席でゆられながら何度も意識が遠のいた。もともと車ですぐ寝てしまう性質なのだが、今日はさすがに睡眠不足だ。はたと気づくと、徹夜明けしたみたいな夫の横顔があった。少し汗ばんでいる雰囲気すらある。

「だ、大丈夫? 疲れてるね……」

 他人事のように声をかけると、夫が言った。

「だって、もう2時間運転してるんだよ? あと1時間で名古屋ついちゃうよ!」

 行きは40分ほどだった帰り道、連休初日の大渋滞に巻き込まれてしまったらしい。うちは東京の片田舎なのだけれど。

 「ありがとうねぇ」と言うついでに、ここのところずっと頭にあった煩悩を思い出す。

「ね、シュークリーム食べたくない? カスタードがパンパンに入ったやつ」

 そうして久しぶりに、近所で行きつけのケーキ屋に寄る約束をとりつけた。妊活中は糖分も少し控えなきゃなぁと思いつつ、これだけ欲しているのだから、たぶん体に足りてないのだ。とかなんとか、頭の中で言い訳をつけて。

 そのとき、お腹の底がちくちくっとした。まさかね、まだ着床するには早すぎる。そう思いながらも、確かに子宮が卵を迎え入れようと準備を始めているのだと思った。この子が、私たち夫婦の運命の卵でありますように。








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