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DAY23.  マックポテトの誘惑


 姿勢が正せる。それがひとつのバロメーターだ、私の場合。家事をしていても、犬と散歩をしていても、デスクに座っていても。はたと気がついたときに、すっと背筋を伸ばせるかどうか。

 どうにも底力が湧かない今日みたいな日は、体の芯みたいなものがくにゃりと曲がって、なんとも情けないことになっている。体は泥のように重い。物理的にも、精神的にも。  

 デスクでは永遠に椅子にもたれかかって、上目遣いで無為にパチパチとキーボードをたたくけれど、仕事は遅々として進まない。家事や散歩をしていても、ほとんど筋肉を使っていない気がする。実際、代謝も落ちているのだろう。 

 たぶん、そろそろ生理がくるのだ。今朝から胸も張ってきた。さっさと来てくれたら、だいぶ楽になりそうなのに。来て欲しいときにはなかなか来てくれないから、頭にくる。 

 そうしてイライラ、鬱々として、肌が荒れて、体も凝り固まって、むくんで、体重まで増えて。聞くところによると、生理前は全女にとって絶不調期らしい。

 みんな、毎月毎月よくやってる。よくもグレずに生きてるよ。ほんと、それだけでエラいんじゃない……? 

  *

 最後の足掻き、PGT-Aを始めてからの採卵成績は、今のところ散々だった。

 1回目のPGT-A採卵では、普段よりもだいぶ排卵が遅れて、時間をかけた分だけ卵が育ち、初めて3つも採れたのだけれど。結局、胚盤胞まで育って凍結できたのはそのうちの1つ。成長スピードは遅く、卵のグレードは見事に一番下のランクだった。

 2回目、今度は急に排卵が早まって、生理から10日目での採卵になる。卵は1つだけ採れたけれど、胚盤胞まで育たずに成長が止まってしまった。

 結果、PGT-Aの検査に出せたのは最初に採れた1つだけ。これまで見たことがないような最低グレードの卵。そこでまさかの正常胚の判定が出る可能性は、限りなくゼロに近いように思う。

 そして、やっと生理が来た。妊娠判定待ちのときは「来るな来るな」と念じるくせに、早く次の治療へ進みたいときには待ち遠しくてたまらない。そこには、すぐそこまできている閉経への恐怖も入り混じっていた。

 こんなにも生理と向き合う日々なんて、きっとこれが最後だろう。本当に今にも消えそうなところで必死に耐えている、風前のともし火のような私の生理。今回は特にどす黒く、あまりにも少ない経血が不吉極まりなかった。

「あー。コーヒー飲みたい」

 クリニックに指定された生理3日目の朝。起きがけにプロテインだけ飲んで出発した。8時の予約時間を目指して車を走らせる夫の横顔は、さすがに眠そうだ。

 昨夜は0時をまわりそうな時間まで、夫はWEB会議をしていた。ここ数日は胃痛がしているらしく、好んでお粥など食べている。

 もともと何かとどんぶり勘定だったけれど、夫は不妊治療に対してもそのスタンスを変えることがない。治療をするなら、その分ガンガン働けばいいと思っている節があった。

 「治療費とかじゃなく、自分たちがどうしたいかで決めよう」と言う。そこで消えたお金を惜しむこともないし、治療がなければその分働いていなかったかもしれない。そんな感じだ。

 それは私も同じなのだけれど、私は治療のために仕事をセーブしているところもあり。実際のところ、保険適用のない高額すぎる治療費は夫の肩に重くのしかかっていた。

 小一時間かかる行きの車の中で、相談を持ちかける。今周期は移植にしようか、採卵にしようか。1つだけPGT-Aに出せている胚盤胞の検査結果がもし間に合えば、その評価次第で、その検査したものか、今1つだけ凍結できている未検査の胚盤胞のどちらかを、もう移植してしまおうか――。

「どうしようねぇ」

「この間やったCD138、慢性子宮内膜炎の検査結果が、もう出てくると思うんだけど。良くなってたら、なるべく早めに移植したほうがいいみたい」

「なら、移植しようよ」

「うん。でも……それはさ。もうそれで最後にする、くらいの感じだよ?」

「ああ……」

 私たちは、本当はあと1回だけ移植をしたら、治療を終えようと話していたのだ。PGT-Aを始めてから、またうやむやになりつつもあるけれど。現実的に、もうそんなに長いことは続けられないだろう。

「移植できる正常胚が出るまで、もうちょっとPGT-A採卵続けたい?」

「そりゃあ、ね。もちろん期限は決めたほうがいいと思ってるけどさ。1個だけ検査に出してダメだったら終わりっていうのも、どうなんだろう」

「だよね……。しかも最低ランクの卵だったし。じゃあやっぱり、もう1回は採卵しようか」

「そうね……うん。採卵だ」

 そうして何かが決まったような雰囲気だったところから、約1時間後。私は車で待つ夫にLINEをしていた。

〈今日は内診ないはずの日なのに、なぜか内診室に呼ばれた……〉

 それから、10分後。

〈なんか、でかいのが見えた気がする……遺残卵胞かも〉

《なにそれ?》

〈前の周期の卵胞が育っちゃってるっていうやつ。。それを採卵できたりするって話も、聞いたことあるけど。どうなんだろう〉

 そこからまた1時間待たされ。診察室で淡々と宣告された。

「遺残卵胞? まあ、そうですね。23㎜の卵胞に対して、E2があまりに少ない。普通はこの2倍くらいの数値になるものなので……今回は採卵見送りですね。今日帰ったら点鼻薬をしてもらって、しっかり排卵させて、また生理が来たら3日目に来てもらって、次に採卵しましょう」

「えっと……。あの、移植、とかは……」

「ああ、この間のCD138の検査結果ですがね、陽性でしたので」

「え」

「前回飲んでもらった抗生物質が効かなかったので、今度は違う薬を2つ飲んでください。また14日間ですね」

「なるほど……そうでしたか」

 差し出された検査結果の紙を、まじまじと眺める。完全なる陽性だった。数値も前回からまるで良くなっていない。

「あの……変な話、タイミングとかとってみたら、どうなんでしょう? その遺残卵胞というのは……」

「いやいや、それはないですね。生理中にそんなタイミングをとってみても駄目でしょう」

 密かな野望もむなしく散った。今日の医師の顔は見覚えがある。前回思ったのは、「めちゃくちゃ早く診察終えたいタイプだなー」ということで、本日もまったく同じ雰囲気を醸し出していた。目はほとんど合わない。

「そうですよね。ありがとうございました……」

 そそくさと診察室を出て、またLINEをする。

〈全然ダメだったわ……〉

 そこから詳細を報告しながら、また30分待ち。ようやく会計を終えて、エレベーターを降りながらLINEをした。

〈もうマックでも買うか〉

 すぐに返信がくる。

《いいねー!》

 クリニックを出ると、もう外は昼前の忙しない喧騒に包まれている。

 いつものマクドナルドの前で待ち合せをしたら、なぜだか傍らにカメラクルーが待機していた。「なにあれ?」「なんだろね」とヒソヒソしながら、夫婦でレジへ向かう。朝マックとランチの狭間、客はまだまばらだ。

 そして、またふたりで顔を見合わせる。

 レジには、背後からちゃきちゃきと指示を出す指導係と、あたふたしながら言われるがままこちらに注文を聞いてくる新人さんの図があった。そこに少し特別感があるのは、指導係が恐らく還暦を超えたくらい、新人さんはもしかすると、古希……。

「お婆さんが、お婆さんに教えてる……」

「ちょ」

 見たままを口に出す夫を咎めながら、私の顔は緩んでいた。後ろからくる指示をこだまのように口から出し、まるで二人羽織のような風情の新人さんに。

 ピロリ、ピロリ、とポテトを揚げる音がけたたましく鳴り響く中で、指導係はこちらに構わず大きな声で指導をしていて。新人さんも「はい!」と元気だけはすこぶる良い。それでいてレジのボタンひとつ押すのにも、「あ、ええっと……」と、ことごとくまごついている。

 ほ、微笑ましいんだけど……申し訳ないほどに可笑しみがあった。まるでコントだ。

「もしかして、あの新人さんを撮ってるの? ドキュメンタリー……?」

「かな……?」

 私は月見バーガーとコカ・コーラゼロ、夫はすき焼き月見バーガーのポテトドリンクセットでホットコーヒーを、それから1つずつ月見パイも注文して。テイクアウトを受け取ったところで、声をかけられた。

 まぶしい笑顔。正しくキラキラしたという表現が似合う、おそらく20代前半くらいの女性。

「あの、今日からマクドナルドが値上げしたの、ご存知でしたか?」

「え。そうなの?」

「そのリアクションを撮らせていただきたいんですけど……」

「あ、ごめんなさい。いいです」

 女子アナ風の彼女がまた可愛らしく笑いかけたところで、夫がぴしゃりとその申し出を断った。私は所在なく彼女と苦笑いをし合って、店を後にする。

 ほかほかのポテトの匂いを抱きながら、駐車場に向かって歩いた。Twitterの妊活アカウントの間では、マックのポテトは移植後に食べると良いという謎のジンクスがある。

 しかしまた、移植は遠のいてしまった。次に食べるときには移植だったりするだろうか。その前にまた、こんなやさぐれた気持ちのときに誘惑されそうだけれど。

 夫が怪訝な顔をしてこちらを見た。

「ちょっと」

「うん?」

「ここまでの一連の流れで、何か気づかない?」

「え??」

 何か私の知らない間に、不具合なことでも起きたのだろうかと、少し身構える。

「なんでわからないのさ」

「えー?」

「今日、ビッグマック頼んでないんだよ、俺!」

「あ、ああ~! ……て、何それ」

「大事件だから!!」

 いつもはマックと言えばビッグマックを必ず頼み、ポテトとコカ・コーラを頼み、そこに何かもうひとつのバーガーをプラスするという夫のスタイルを、私は確かに知っていた。しかし今、私の中でのどうでもいいランキングではトップを争う。

「そこは褒めてほしいよねー!」

「はは。えらいねぇーー!えらい!えらい!」

 2度目の流産から4ヶ月ちょっと。夫と私は「あすけん」なる食生活改善アプリにハマり、飽和脂肪酸だの塩分過多だのに気をつけるようになっていた。実際にそれぞれ7〜8キロは痩せたのだから、侮れない。

 久しぶりに買いに来たマックまで値上がりしていて。診察の内容をふり返ってみても、まさに悪夢的な1日の始まりだったけれど。それでもわが家は、今日も平和だった。ありがたい。有り難い。

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