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DAY31 .  今年最後の大勝負

 あれだ、あれと同じ感覚。宝くじを買ったときの気持ち。 

 「宝くじなんて、そんなんで運使っちゃたくないし」とか言って、滅多に買わないんだけど。これまで40年以上生きてきて、5~6回くらいは買ったことがある。

 せっかく買っても、「1億円が当たったら」なんてこと、私には全然想像できなくて。「当たったら何を買おう」とか、夢見ることすらできず。とりあえず買ってはみるけど、300円とかしか当たった試しがない。「やっぱりね!」で、いつも終わるやつ。

 いつからだろう。ばかみたいに高いお金を払って不妊治療を続けているのに、その先に本当にわが子との慎ましやかな幸せを噛みしめて生きていく未来があるなんてこと、全然想像できなくなったのは。

「……凍結、また1つもできなかったみたい」

 「ああ、やっぱりね」と心の中で静かにつぶやきながら、クリニックからのメール報告を夫に見せる。

 そこで不意打ち。思いがけず夫の目が少し赤らんでいて。「そっか」って、悲しい笑顔で私の背中をたたいて、なぐさめようとなんてするから。鼻がつーんとして、ぎゅっと目頭が熱くなる。こんなの、毎度おなじみの結果なのに。

 夫婦ふたりだから乗り越えられた試練もたくさんある。何かと楽しみも増えたと思う。でも、ふたりだからこうして、余計に悲しくなったりもするのだ。

 転院して以前よりも卵巣刺激を強め、初めて自己注射も始めて、薬もたくさん飲んで。6日前に採卵できた私の卵子は、たった2つ。一度に10も20も採れる人に比べれば、だいぶ少ない。それでも、空胞やたった1つだけだったときよりは倍の確率があったはずだ。

 2つの卵子は夫の精子と無事に受精したものの、移植できる基準を満たす胚盤胞にまで育つことはなかった。あの慎ましやかな未来につながる確率は、またゼロに戻ったのだ。

 移植可能な受精卵をほかに1つも貯卵できていない私は、生理を待って再び採卵手術に向け投薬と自己注射をくり返すことになる。

  *

「すごい! ちょっと私にも撮らせてー」

「ふふ。ヤバいでしょ、これ」

 私は彼女に言われるがまま、丸めた自分の左手を彼女のスマホ前に掲げた。たった今、この日の記念に自分でも撮っていたもの。そこには白や黄色や茶色やらの山盛りサプリメントが、窓からの陽を浴びて怪しく輝いている。

 窓の外は夢の国。私は、かの有名な水辺のテーマパーク付きのホテルに地元の女友だち2人と前のりで宿泊していた。採卵手術を明日に控えて。

 昨夜はここで注射もしたし、今日は園内を歩き回りながら、指定時間通りに排卵止めの座薬も入れなければならない。トイレの場所はチェックしておかないと。

 26回目の採卵にもなると、なめたものだなぁと自分でも呆れるけれど。こうでもしなきゃ、いつくるかわからない生理に合わせて先の予定など立てられやしないのだ。仕事の予定さえ立てにくいのに、ましてや遊びの予定なんて。

 気づいたらコロナ禍もあいまって、私は「無駄」な予定が1ミリも入れられなくなっていた。治療が長引けば長引くほど、その期間はずんずん伸びて、知らないうちに心がシワシワのカラカラになっていく。

 今年の年明けは1月に流産手術をして、2月にはまた年を重ねてしまった。かと思えばもうすぐ年末だ。1年が早すぎる。

 3度目の流産で心が折れ、さすがに転院を決めた。5月にようやく新しいクリニックで不妊治療を再開してからは、予定を入れることに以前ほどの躊躇がなくなった気がする。

 どこか消化試合のような諦めがあるからだろうか。なるようになる精神。そこで「諦めたらできる」なんてこともまったくなく、これまで以上に「採卵数ゼロ」の結果が続いて。最後のとどめは、1つだけ卵子が採れて顕微までしたのが異常受精。束の間の希望は、また完膚なきまでに散ったのだった。

 連日のニュースになるほど真夏並みに残暑が色濃かった今年の秋口。さらに転院をした。

 卵巣刺激を強めることには不安もあったが、採卵日には2日ほど候補があって、こちらで選べたりもする。日曜が休院で大丈夫なのかとも思ったが、日曜がらみの予定は入れやすくなった。

 まだ結果には結びついていないけれど、これまで試すことすらできなかった治療法にも挑むことができ。これが本当に最後のあがきだと、腹をくくれそうな気もしていた。

 そんな日々。「無駄」な予定をときどきこうしてぶち込みながらも、根はどっぷり不妊治療に浸かっている。

 今日はパーク内でスナックも食べるつもりだし、多少内容は意識しつつもジャンクフードになるだろう。そのくせ、いつも飲んでいるサプリメントを休む気持ちには到底なれない。

 DHEA、ベータカロテン、ビタミンB群、ビタミンD、ビタミンE、ヘム鉄、マグネシウム、カルシウム、アスタキサンチン、還元型コエンザイムQ10、ラクトフェリン、プロバイオティクス、フィッシュオイル。その量に、自分でも引く。

 私の肝臓はきっとフル稼働だろう。果たしていつまで辛抱してくれるのか。いかにもラストスパートめいている。

 昨夜は寝る前にメラトニンも飲んだ。Lカルニチンは携帯しにくいパウダータイプしかなかったから、昨日今日はおやすみ。いつも旅先ではコンビニで手に入れているプロテイン飲料も飲みたかったけれど、夢の国のホテルにそんなものはなかった。今度、タウリンのパウダーも新たに飲み始めようと目論んでいる。

「何から乗りたい? ピュッと出ちゃわないように、激しいのは避けないとね!」

 採卵前にあんまり激しい運動をすると、その衝撃でピュッと排卵してしまって、採卵ができないことがある――嘘か本当か知らないけれど、たまに聞くその説を彼女たちには事前に伝えていた。

「そんな激しいの、ここにはないでしょう? ジェットコースターとかはもともと駄目だけど、ここなら何でも好きなのについていくよ」

「いやいや、夢の国なめてるね。結構激しいのもあるんだから!」

 来たの自体が10年ぶりくらいの私と、これを機にファンになってもらいたいらしい夢の国オタの彼女ら。今日はその魅力をプレゼンする気まんまんらしい。

 2人は独身だ。1人は「今のままがいい」という選択的非婚で、1人はまだ前の恋を引きずっている。30年来の同級生たちは職種もまったく違うけれど、互いにあまり相手を詮索する性質じゃないのが気楽だった。

 私からあけすけに不妊治療の話をしても「そうなんだ」と聞いてくれるし、変なアドバイスをしてきたり、治療の進捗状況をいちいち聞いてきたりはしない。それぞれがそれぞれの日常を過ごして、ときどき思い出したようにこうして連絡をとりあう関係。

「今回もさ、ダメ元みたいなものだから。今日を楽しまないと。むしろ幸せホルモンが出て、いい効果があるかも知れないし!」

 少しだけ自虐する私に、選択的非婚の彼女が言った。

「でもさ、今回はきっとうまくいく気がするんだよね。お婆ちゃんの生まれ変わり……的な!?」

「あはは! 生まれ変わりか。うちの婆ちゃんみたいな子ども生まれたら面白いかもなー」

 予想外のフォローに思わず笑う。昨日、私は祖母の骨上げをした田舎の火葬場から夢の国へ直行したのだった。新幹線のトイレで喪服をワンピースに着替え、ファビオルスコーニの黒ヒールを白のニューバランスに履き替えて。

 享年97歳、病気も何もなく眠るように息を引き取った大往生だったけれど、まさかこんな日に見送ることになるとは思わなかった。「きっとお婆ちゃんも夢の国楽しんで来いって言うよ」という夫の言葉をそのまま受け止めて、このなかなかのハードスケジュールは決行されたのだ。

 夫と平日の通夜に駆けつけ、翌日に火葬を終えて、いざ夢の国へ。昨夜はテーマパークらしい煌びやかなホテルに続くエレベーター前で、そっとお清めの塩を自分の肩にふりかけた。

 生まれ変わり。いわゆる「魂」って、どの段階から入る設定なのだろう。

 採卵時はまだ卵子だけで、精子と結ばれた受精卵にはなっていない。命ってどこから始まるんだろう問題。卵子自体は、私が生まれたときからずっと卵巣にあるものだし。そんな不妊治療視点の込み入った話は、わざわざ彼女らに説いたりしないけれど。

 美しく化粧をされた祖母の顔は、最後にホームへ会いに行ったときよりずっと若々しく、よくしゃべり、よく笑っていた頃を思い出させた。本当に穏やかな顔で。

 2か月ほど前、ちょうど転院して初めての採卵が空胞に終わったすぐあとに見た彼の顔も、また穏やかだった。

 彼の命を奪ったのは突然の持病の暴走だったけれど。その憎めない愛嬌たっぷりの彼の素顔は、確かにそこに表れていたと思う。

 夫婦ともに彼とは同級生、それも夫とは腐れ縁というかなんというのか。ときどき女子高生みたいに長電話をしていた幼馴染。あまりに早すぎる死だった。やっとコロナ禍も落ち着いてきたところで。

 数年前に彼と結婚した10ほど年下の彼女の、凛々しくも美しい横顔が目に焼き付いている。彼を慕うたくさんの弔問客を相手に、ときどき涙しながらも気丈に話をしてまわり、結局、朝方まで棺のまわりで皆が飲み明かすことになって。

 彼ら夫婦にも子どもはいない。だから余計に、自分もいつかこうして夫の死をひとり受け止めるのだろうかと思わずにはいられなかった。本当に立派な喪主で。彼女と結婚できて良かったね、と心から思った夜。

 「お別れしてあげて」と促され指先で触れた彼の頬は、まだしっとりとしていて。よく聞くような「ぞくりとする死の冷たさ」は、まったくなかった。まるで生きているかのようで、かえって切なくなる。

 人の生は、意外とあっさり始まったりするけれど。死もまた、こんなにもあっさり訪れるのだ。予期しないタイミングで。今年こそは、恒例の忘年会も気兼ねなくできそうだと思っていた矢先に。

   *

「はい!」

 26回目の採卵を終えた翌日。朝から会社の上司らと出かけていた夫は、帰ってきてひと通り愛犬とのわしゃわしゃおかえりタイムを過ごしたところで、黒のバックパックから何やらとり出した。

 その分厚い白封筒には、深緑色のロゴと「JRA/日本中央競馬会」の文字が刻まれている。

「え?」

「やりました!!」

「えぇー!? うそぉ!!!!」

 中には、マンガみたいな100万円の札束が入っていた。JRAのロゴ入り帯封が輝いている。

「わざわざ銀行に入金しないで実物見せに持って帰ってきたんだから。あとで散歩がてら、コンビニに入金しに行こうね」

「なんと……。こんなの当たることがあるんだ、本当に」

「ね。俺も初めて。端数でみんなに寿司おごってきたから」

「私もおごってもらわないと! でも、こんなの当たったら、いい運気まで使っちゃったんじゃない!?」

「ぬ」

「まだ見ぬ正常胚に出合える運気が……!」

「俺の運気はこんなのですぐ枯渇しないから! てか、まったくの幸運じゃなくて、しっかり分析しての結果だからね!!」

「ほんとー? これはもう、私の運気でがんばるしかないかぁ……」

「それは、がんばりたまえよ」

「あ!」

「何」

「私、来年、大殺界らしい……ふと気になって調べちゃったんだよね……」

「あーあー。そんなの、知らないでいたほうがいいのにぃ」

「やってしまった……でも、あれかな。なんか厄年のときに子ども生むと厄落ちるとかも言うよね?」

「ああー。聞くね」

「それ、目指すか!」

 この日はまだ、前日に採れた2つの卵が無事に受精してくれたという知らせだけを受けていた。数日後には「凍結ゼロ」の知らせでばっさり切られることなど、知る由もなく。そうして冗談を言い合いながら、思ったのだった。

 賭けてみないと、何が起こるかなんて本当にはわからない。

 人生を賭けた治療のラストスパートを最後まで駆け抜けるのに、きっとこれ以上のパートナーはいないだろう。大枚をはたいて体もボロボロで、夢も叶わずに終わったとしても。きっと私たちは、またこうして笑い合えるーー。

   *

 そして、27回目の採卵周期。まさかの5つ、卵胞が見えて。成長速度の違う卵を確実に採るために、1周期に2度連続で採卵を行なうDuo Stim法を試みることになったのだった。

「卵、ありません! 顆粒膜細胞もありません!」

「……卵、ありません! 顆粒膜細胞もありません!」

 無機質な機械音とともに手術室に響くそのくり返しだけが、天井を見つめる私の耳を突いてくる。

 局所麻酔をしていても、ズー…ン、ズキリ、チクッていうかブスッッ、節々でくる下腹部の疼痛に、息を吐き、できる限り力を抜いて、ただただ耐える時間。

 いまだに普段の血液検査では注射針が自分の肌を刺すのを直視できない私に、ものすごく長く痛そうらしい採卵の針など見られるわけがなく。採卵状況を映し出すモニターや、横でやさしく声をかけてくれる看護師の顔を見る余裕もなく。ひたすら天井の一角を見つめる。

「……卵、ありました!」

 その一言が聞こえてようやく、ひと山超えた気持ちになる。今回は、その後に「変性卵です!」の声も聞かずにすんだ。

 この日は採卵のついでに、自分の血液からつくるPFC-FDを卵巣に注入して活性化させる処置もして、引き続き耐える時間はいつもより長かったけれど。「速報値ですが、3つ採れましたよ!」という傍らの看護師の語りかけが、これ以上ない鼓舞になった。

 結果は、成熟卵2つと、未熟ぎみだという卵が1つ。院内採精した夫の精子は今までにないほど数が多く、遠心分離機にかける前はなんと2億2000万匹、前回の3倍くらいの数だと培養士も驚く結果だった。

 そうして夫と喜びあった翌日、また受精結果のメールが届く。感情のない文字列が並ぶPDFの中から「体外受精 3コ」「受精結果 受精1コ 異常受精1コ 未熟1コ」の文言を見つけて、その意味を理解した途端に力が抜けた。

〈 受精してくれたの、1つだけだった 〉

 すぐさま送ったLINEに既読がつき、出張先の夫から返信がくる。

《 あら 》
《 タマタマの調子、良いはずなのにー 》

 茶化してくれる夫に、つい本音が出た。

〈 卵の問題かな 〉

《 いやいや 》
《 みんなが調子良すぎて、ダメなやつが割り込んだのかもねー 》

〈 確かに異常受精、受精はしたということだから、卵子の殻が固くて入れなかったとかじゃないってことだよね。勢い余って2つ入っちゃった感じかな? 〉

《 うんうん 》

〈 元気が良すぎたってことにしとくか! 〉

《 だね 》
《 精鋭部隊がたどりついた1コに期待しよう! 》

〈 電話して詳しく聞いてみようかな… 〉

《 うん。聞いてみたら? 》

〈 よし、聞いてみる! 今回は攻めでいくか 〉

《 そうね 》

 結局、この日は日曜でクリニックは休院で。培養室に電話をして詳細を聞けるのは、週明けの月曜に持ち越されたのだった。


 今周期はまだ2回目の採卵ができる可能性があるのも、心の支えになっていた。採れてもたぶん1つだと言われているものの。なんだか、あきらめてばかりいるのも飽きてきたところだ。

 もしかして、初めてのPPOS法で黄体ホルモン製剤のプロベラ錠を飲んでいるから……じわじわとオーバー気味になっている体重も、だいぶ気になってはいるのだけれど。気分の落ち込みは、いつもより少ないような気もする。

 私たちは眉月みたいな一筋の希望のもと、もう少し進めそうだ。今年最後の大勝負は、まだ終わっていないーー。

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