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DAY26.  たい焼きの神さま


 目の前に、2つの選択肢があったら。

 リスクヘッジだとかキツいとか、無駄だとか、云々かんぬんを並べ立てるより前に。ごくシンプルに、未来が楽しみなほうを選びたい。

 それくらいの自由はあって良いのではないかと思ったりする。私もまた、この世に生まれ落ちたひとりの人間なのだから。

 名前もつけられずにいってしまったあの子を思いながら、今日もずっとそんなことを考え続けていた。

 考えても仕方のないことを、くどくど永遠に考えている。人間なんてそんなものだろう。

   *


 もう2週間後には私の誕生日。と同時に、結婚10年目がはじまる。そんな金曜の朝。私たちは、それどころではなかった。

「仕事ってさ、2通りの考え方があってさ」

 運転席の夫が言う。

「家族ができたら、少し安定的に、稼ぎ過ぎないっていうかさ」

「忙しくし過ぎないようにするってこと?」

 私もその隣で適当な相槌を打っている。冷え切っていた車内はもうだいぶ暖まってきたけれど、私はコートを着込んだまま、その身をほどけずにいた。夫も私も、なんとなくいつもよりテンションが高い。朝っぱらから。

「そういう働き方をしようと思うのか、逆に家族のためにバリバリ稼がなきゃなって思うのか。わりとそこが分岐点な気がするんだよね」

「あんまり忙しくなってもね」

「けどさ。老後も年金とか当てにならないとすると、貯金することも考えたら、今の収入ベースで……まあ、これをずっとは無理だろうけど。あんまり落とさずにいきたいなと思うわけよ」

「そうねぇ」

「たとえば家族が増えてさ。今まで不妊治療で我慢してた分、海外旅行しようよとか、どこか遊び行こうかってなったときに、3人分かかるわけでしょう?」

「そうそう。この間ツイッターで、苺狩りに家族で行こうとしたら高すぎて、パックで苺買ってきたほうがいいわ!みたいな呟きが燃えてた。行かせてやれよとか。でも実際、何かとお金かかって大変だろうにねぇ」

「でも、大変だからやめるんじゃなくてさ。大変だから、稼がなきゃいけないんだよね」

「まあね」

「そう考えると、今よりも稼ぐ仕事を50歳60歳でも続けなきゃいけないわけで、そうするとサラリーマンじゃ無理だよな、とかさ」

「……投資とか、そういう話?」

「いやまあ、投資というより、副業を増やすとかさ。会社じゃなく個人として受ける仕事とか、やり方はいろいろあるじゃん?」

「私もこれから、どうしようかなぁ」

 言いながら、そこまで真面目に自分の仕事の行く末について考えているわけでもない己に苦笑する。

 なんやかんや、私はこの夫におんぶに抱っこでまともに金の計算ができないまま、40をだいぶ超えてしまっていた。ひとりになったらなったで気楽に生きていけるとは思うけれど、家族をつくるとなれば話は大きく変わってくる。

「この間、仕事でFPさんにライフプランの話を聞いてさ。旦那さんが会社員だと給料の上り幅がある程度決まってるから、パートでもなんでも、奥さんがちょっと働くだけで家計が助かるんですよ、みたいな話で。私も今はセーブしてるけど、何かしら働いていかないとねぇ?」

「いや、そうじゃなくてさ。仕事って、やり方はいくつかあると思うんだけど。お金を稼がないといけないと思って稼ぐ仕事と、やりたいと思って、楽しくやってたら稼げる仕事っていうのがあってさ。ひとりでやりたい楽しいことだけやって稼ごうとしたら、なかなか家族は持てないものじゃない?」

「そうだねぇ」

「生きていかなきゃいけないから、一定の生活をするためのベースは作らなきゃいけないんだけど。でも、それはもう俺がやってるからさ。君は別に、これをやってみたいとか、思いついたことをやるっていうのでいい気がするんだよ。もしかしたらそっちのほうが、ドーン!があるかも知れないじゃん?」

「あはは、ドーン!がね。あるかな」

「そうすると、パートで月10万とか、もはやどうでもよくてさ。そんなちっちゃなお金を求めたことなんて、これまで一度もないから。君はやっぱり、ドーン!を目指していかないと。俺にはないからさ」

「なんでよ、あるでしょう」

「俺にはないよ。ドーン!は、ものを生み出す人にしかないから。俺は人が作ってるものに手伝ってって呼ばれることが多いというか」

 夫はときどき、私の仕事を素晴らしくクリエイティブなものだと解釈したようなことを言う。実際はそんなことはない、依頼を受けてこなすだけのしがないフリーランスなのだけれど。

 夫と私は似た世界の仕事をしていながら、しっかり分野が違っていて。違うからこそ、何やら苦労して取り組んでいる相手の姿を見ると、自然と尊敬の気持ちが生まれる。私も私で、夫の仕事をひどく面白そうだと思い、およそ自分には手が出ない類の仕事だと感じているのだ。

「でもそれって、すごいことじゃない。呼んでもらえるニーズがあるわけだから」

「いや、世の中のニーズそのものを作り出す人っていうのがいるんだよ」

「何が必要とされているかを導き出すデザイン力、みたいな? それぐらいのこと考えていきたいけどねぇ。私は全然、そこまでじゃないから。ははは」

「いや、それでいいんじゃないのって話」

「それぐらいのこと考えられる親ではありたいけどね。まあ、これからの時代の子どもには、ぜひともそういうふうに育ってもらいたいよ」

「そうだよ。なんだっていいじゃん。思いつきで自社ブランド立ち上げて、洋服売ったりしてもいいわけだしさ」

「生まれてくるとしたら、どんな子だろうね? 私みたいなのが生まれてきたら大変だけど。でもなんか、何とか法っていうのに当てはめてみたら、胎嚢の中の胎芽の位置からすると女の子っぽいんだよね」

「へえ。いいじゃん」

「まあ、ちゃんとした判断じゃないから全然信ぴょう性ないんだけどさ。でも、いざ女の子かもって考えたら……えー!?って。なんかドキドキしちゃうというか。同性だからかな、変な感じ。あなたはどっちが良いとか、ある?」

「ない」

 夫が即答する。そこで終わらせておけばよかったのに。つい、調子に乗ってしまった。

「着床したのがわかってから、ずっと子宮のあたりに何かいるのを感じるんだけど。今日もやっぱりずっとその存在を感じるから、きっと大丈夫なんじゃないかなと思うんだよね……」

「そうなの?」

 夫の顔に、さっと熱がこもる。

「月曜にしっかり2度目の心拍確認ができたばっかだしね。今回はきっと、ね?」

「そうだよ。順調以外の何ものでもないと、俺は信じてるけど!」

「うん。ふふ」

 これまでになく夫の言い草に愛を感じて、思わず笑みがこぼれた。

「よし」

 ちょうどいつもの駐車場にたどり着き、夫は車を停めてから改めて私の目を見る。力強く、願をかけるようにして。

「じゃあ、行ってくるね」

「行ってらっしゃい!」

 私たちはそうして、期待にぽっと胸の奥を温かくして別れたのだった。

 それから1時間ほど後のことだ。ひとりクリニックの冷たい内診台の上で、静かな画面を眺めながら淡々とした医師の言葉を聞いたのは。

「ここが胎嚢なんですけど……赤ちゃん、動いていませんね。心拍が止まってしまっています。詳しくは、のちほど診察室で」


   *


「ごめん……」

 5週間と2日前、そろそろ昼ごはんにしようかとリビングへ降りていくと、そこには赤い顔をしたマスク姿の夫がいた。

「え?」

 唐突に謝られて、冷蔵庫に残っている食材の検索をし始めていた脳がフリーズする。

「熱出ちゃった……」

 心底申し訳なさそうな顔をしている夫が、数日前に泊まりがけの出張へ行っていたことを思い出す。もれなく、夜は仕事先で幾人かと会食をしていたことも。

「えぇぇ……」

 すぐに頭を駆け巡ったのは、明日の「判定日」だ。これが最後になるかも知れないと臨んだ移植。たった一つ凍結できていた受精卵を、私の子宮へ戻して、それが無事にくっついて育ってくれたかどうかを血液検査で見極める日、それがちょうど明日に控えていたのだった。

「出張先の人も発熱したらしい。PCR検査、受けに行くって。ほんと、ごめん……」

 それから10日間、いわゆる家庭内隔離の日々。夫は家の中でもマスクをして、寝室とトイレの行き来で日がな過ごし、私は私で空気を入れてふくらます簡易ベッドを引っ張り出して、事なきを得た。

 私にうつることがなかったのは、そこそこの隔離をしてうがい手洗いを徹底したからなのか、はたまた移植に良いからと免疫も強化するらしいビタミンDサプリを多めに飲んでいたからなのかはわからない。

 ともあれ、喘息持ちの夫も高熱は続いたものの大事には至らず、意外とすんなり、とうとうわが家に訪れたコロナは去っていったのであった。


   *


「ごめんね」

 車で待つ夫の元へ帰ったときの、私の第一声もそれだった。

「期待、させちゃったね……」

 夫はすぐに私を抱きすくめて言った。

「そんなこと、言わないで」

 視界を失い、何の気兼ねもなくなった目からほろほろと涙がこぼれ落ちる。ほんの数時間前との落差がひどすぎた。人生でこんなにも落差があるようなこと、不妊治療をする前はなかった気がする。

 そして途方にくれた。すべては、終わってしまったのだろうかーー。

 私なんかやめて、若くて可愛い新しい嫁でも見つけたら、あなたも子どもに恵まれるんじゃないの? 頭の端ではそんなふうにも思うけれど、そうは言わない。夫がそんなことを望んでいるわけではないことを、ちゃんと知っているから。

 私は私で、いつの間にか変化している自分の思考に気づいている。シングルでもなんでも、「自分の子ども」という存在に夢見ていた20代の頃と、今は確実に違っていた。私は「この人と育てる子どもだから欲しいのだ」と、いつからか切に願っている。


   *


 今日よりも、明日が良い日になる予感。それは、自分の選択次第なのだろうと思う。じゃあ、私はどうするべきか? どうしたいのか? 答えは出ているようで、出ていない。結局、ひとりでは決められない。

 結婚して、その上在宅ワークだと、いつもふたりでいるようでふいにひとりに陥ったりする。特に夜、布団の中で眠りにつこうとするときなど。

 すぐ隣でいびきをかいている夫がいるのに、そこでひとり音もなく涙を流したりするのだ。自分の誕生日の3日前に流産手術を終えて、空っぽになったお腹を布団の中でそっとなでる夜更けに。

 本当に、夢みたいな時間だったなぁと思う。自分の中に新たな命の息吹を感じていたおよそ2カ月。あと1日で、9周を迎えるところだった。まさに9周の壁。ここがどうしても超えられないまま、結婚から10も歳をとることになるなんて。

 でもやっぱり、心の底ではふつふつと、まだ願う気持ちが巣くっていた。自分自身を客観的に見たら、とても背中を押せる状況ではないのはわかっている。

 手術で取り出した「わが子」を後部座席に乗せて、車を走らせていた。はたして染色体異常があったのか、受精卵そのものの問題だったのかどうかを見極める検査に出すために。

 本来は手術後そのまま検査に出すはずのものを、さまざまな手違いで夫婦自ら運搬することになった日は、私の誕生日の前日だった。

「あのさ」

 急に改まった調子で夫に言われて、とっさに私も身を固くする。

「うん?」

「行く前に、確かめておきたいんだけど」

「……はい」

「これでさ、もう完全に子どもをあきらめるってことじゃ、ないよね?」

 そう言われた拍子に、もう涙がパラパラと落ちていた。

「……」

「いや、これでひと区切りつけようって話してたんだけどさ」

 夫が少し慌てる。

「正直、今回またこれまで以上に育ってくれて、俺自身、可能性も感じちゃってて。君にこれ以上負担はかけたくないから、あまり体を刺激するような方法はとりたくないんだけど。できる範囲で……セックスもしてさ。完全にあきらめることは、ないんじゃないかなって……」

「うん……」

 助手席で涙を流す私を見て困った顔をする夫に、そうじゃないのと首をふる。

「検査に出してから、話そうと思ってたのに」

 泣き顔で行くの、気まずいじゃん。私は私で、これからのことを改めて夫に切り出そうとしていたのだ。もう一度、採卵と受精卵着床前検査PGT-Aに挑戦したい。やっぱり。

「いや、だってさ。これからのことも考えて『どうかお願します!』って、ポジティブな気持ちで検査に出したいなと思って……」

「そうだね、ポジティブにね。ふふ」

 流産の検査をポジティブにって、どういうことなの。でも、そこが夫らしい。私のポンコツな子宮も、生まれてくることができなかった愛しい愛しいわが子も、その全部をひっくるめて受け止めてくれる感。私の居場所。

「そしたら、今日も帰りに買って帰ろうか」

 なかなか止まらない涙をティッシュで拭いながら、夫に提案する。

「もちろん、そのつもりだよ!」

 ふたりの頭に思い浮かんでいるのは、クリニック近くの店のたい焼きだ。昭和28年創業らしいが、まさしく老舗感のあるシュッとしたその姿、表面が絶妙にこんがりパリッと焼き上がった皮に、しっぽまで入ったあんこの塩みがたまらない。

 19回にわたる採卵手術を経て、最後の受精卵移植からの、3度目の流産。ついこの間に厄払いもしたばかりで、神さまなんて本当にいるのだろうかと考えるけれど。このたい焼きには、確かに神が宿っている。

「本当、うまいなぁ」

「おいしいねぇ」

 帰る道々そう言い合って頬張る、ほのかに幸せな時間。結婚する醍醐味というのは、たぶんこんなどうでもいいところにあるのだと思ったりする。どうでもいいというか、どうでも好いというのか。

 もう少し。もう少しだけ、私たちに選択肢をください。どうか、神さまーー。

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