甘蔗の道~1969年 唐牛健太郎の四国遍路(1)
“風のたより”に旅の途上にある人の消息を知る。
手のひらに収まる携行品が,所在を絶え間なく知らせる現代において,このような流儀は,もはや至難の芸当なのかもしれない。
“清川だし”(山形県庄内平野),“広戸風”(岡山県那岐山麓)と並び称される日本三大局地風のひとつ “やまじ風” の里 土居(愛媛県四国中央市)。
法皇山脈と燧灘(瀬戸内海)に挟まれたこの地域は,西条藩領に属する土居,入野,畑野と幕府領 浦山の各村が,明治22年(1889年)の市町村制の施行の際に合併し,新たな土居村として成立。
昭和29年(1954年)津根村,天満村,小富士村などと合併し,土居町となった。
寛政7年(1795年)旧暦1月に土居から入野にかけて吟行した小林一茶(1763~1827年)には,この地での消息不明の一晩があると,当地出身の歌人 山上次郎は述べる。
宝暦13年(1763年)信濃 柏原に生まれた一茶。
“黒姫山から吹きおろす「雪おろし」”(嶋岡晨「小林一茶」)が音を立てて抜けていく信越国境の里をひとり離郷したのは,15歳のとき。実母を3歳で亡くし,8歳のときに迎えた継母との折り合いが難しく,江戸での奉公を余儀なくされた。ここから,一茶の漂泊の人生がはじまる。
25歳にして葛飾派 二六庵竹阿の門人となった一茶が,竹阿にならって西国行脚に旅立つのは30歳のとき。寛政4年(1792年)3月から足掛け7年におよぶ “寛政紀行” である。
讃岐 観音寺の五梅和尚のもとを出立したのは,寛政7年(1795年)1月8日(新暦2月27日)のこと。
1月8日晩は,土居の島屋という旅籠に宿泊したことは,一茶自身の記録から明かである。
山中家は1711年頃には,天満から入野に移り庄屋となる。山中時風(貞候)は幼い時分から才知に長けていたとみえ,11歳にして父 閑卜(貞興)の俳句の師である寶井其角の門人 松木淡々に入門する。
この閑卜と時風の親子は,入野の地を全国区の名所と成し,観光入込客数の増大を図ろうとした“地方創生事業”のプロモーターでもある。
260年程前の地方創生への着想に水を差すようではあるが,念のため付言すれば,小倉百人一首に著名な “あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む” の歌は,万葉集(巻十一の二八〇二)では作者未詳とされているが,拾遺和歌集(恋三 七七三)では柿本人麻呂作となっている。
この点について,“さを鹿の……”の歌についても,万葉集では作者未詳とされているが,新古今和歌集(巻四 秋歌上 三四六)では人麿作とされている。このような事例はいくつかみられ,歌仙 人麻呂神話が独り歩きしたのでは,と指摘されている。
親子は,この筋書きにお墨付きを得ようと,公卿に取り入るなどして,“万葉の人麿の入野” のご当地ということにする。
明和2年(1765年)閑卜51歳,時風28歳の大仕事であった。これが奏功したのか,30年後に入野を訪れた一茶も,すすきが原をたずね,記している。
地元への貢献計り知れない山中家の屋敷 暁雨館に時風を訪ねた一茶であるが,肝心の寛政紀行には“九日入野の暁雨館を訪ふ”とのみ。
このことに関し,山中家の言い伝えとして
山上は “寛政紀行中一茶の宿の不明確なのはこの一月九日だけである” とし,“一月九日の謎” について,自説を展開する。
すなわち次の句は,暁雨館での宿泊を断られた一茶が,その足ですすきが原に赴き,壺すみれを愛で,そのまま野宿したと解する。新暦の2月28日は,ツボスミレが咲くほどに温かかった。
入野での野宿の後,一路松山へ向かい,俳人 栗田樗堂のもとで逗留した一茶は,帰路45日ぶりに再び暁雨館を訪れ,時風のもとで3泊を過ごし,このときは野宿を免れた。一茶33歳のできごとである。
野天の一茶を慰めていたツボスミレの開花は,宇摩平野に生きる土居の領民に,里芋の種いもを植付ける“しるべ”であったのかもしれない。
やまじ風の烈風と灌漑用水の不足に悩まされる土地柄に,里芋は耐性のある作物。栽培の歴史は江戸時代初期にまでさかのぼり,優良品種 “伊予美人” の産地としていまに至る。
ねばりとほのかな甘みのある里芋。
暁雨館に滞在した一茶もお相伴にあずかったのであろうか。
更には,往路の “居留守” の詫びとして,あるいは西国行脚へのねぎらいとして,滋養分豊かな “黒い甘味” のもてなしを受けたのかもしれない。
宝暦に生まれ,明和に信濃 柏原での幼少期,安永から天明にかけて江戸での奉公と俳句修行,寛政に西国行脚,文化・文政期に柏原に帰郷し三度の婚姻を経た一茶の人生は,“砂糖国産化”の黎明期と伸展期に重なる。
この間に甘蔗栽培が普及するとともに,とりわけ寛政期は,国内製糖業の草創期となる時代である。
四国での寛政紀行の道筋は,そのまま蔗作と製糖の伝播の道のりでもある。土居,入野とその周辺を領分とした西条藩の藩主は,幕府による砂糖の国産化政策とも縁が深い。
寛文10年(1670年) 紀州和歌山藩の初代藩主 徳川頼宣の三男 松平頼純が,西条に入部したことにはじまる松平西条藩は,第2代藩主 頼致(1682~1757年)が,正徳6年(1716年)本藩 和歌山藩の第6代藩主 徳川宗直として家督を継ぐ。
正妻のない頼致ではあるが,西条藩主時代に見出し,和歌山に伴った女性との間に,第7代藩主となる宗将(1720~1765年)が誕生する。
この女性は,宇摩郡津根村八日市出身のお作(1702~1781年)という。
頼致とお作の出会いは
かくして,八日市のお作は,紀州55万石宗将公の母 “永隆院” となる。
以後,紀州藩の藩主は,宗直の系譜と西条藩からの継嗣がつないでいく。
西条藩主 頼致が,和歌山藩主に就くに至る発端は,第8代将軍 徳川吉宗(1684~1751年)にある。
第7代将軍 家継が,8歳の幼若で世を去ったことから,紀州藩第5代藩主 吉宗が継嗣となった。
将軍 吉宗といえば,幕府財政の立て直しを図った“享保の改革”であるが,その一環として,蔗作と製糖の国産化が奨励された。
1656年頃の日本の砂糖輸入量を年約1,800tと推計し,イギリスの輸入量88t(1665年)と比較して,“恐らく日本は当時世界一の砂糖輸入国であったのではないか”との指摘がある。
大量の銀貨が輸出され,国内の銀貨不足をおそれた幕府は,1668年銀の輸出を禁じ,砂糖輸入に制限を設ける。
近代日本糖業史(上巻)は,宮崎安貞の『農業全書』(元禄一〇年刊)から次の通り引用する。
吉宗の主唱した製糖国産化。
技術的に困難だったのが,黒糖から白糖への精製であるが,諸説あるも,成功は紀州からもたらされたとの説(角山榮)がある。
元文期(1736~1741年)の紀州は,八日市のお作こと永隆院を見初めた宗直の治政である。
製糖国産化がいずれの藩の快挙であるのかは,それぞれご当地説があるものの,一茶が江戸を出立し,九州,四国を吟行していた寛政期には,甘蔗栽培の普及と黒糖,白下糖,白糖の生産が,温暖な西南日本を中心に始まったとみられている。
ただし,各藩が秘匿とした製糖技術に相違があり,品質面での優劣がみられるなか,讃岐と薩摩で顕著な発展をとげる。
伊予の土居と同じく,灌漑用水に恵まれない讃岐においては,高松藩主の主導により製糖技術の研鑽と商品化が進められた。
寛政2年(1790年)大内郡三本松村(現在の東かがわ市)の医師 向山周慶が,白砂糖の製造に成功したとの説がある。
周慶が製糖法を知るいきさつとして
この四国遍路による白砂糖精製技術の伝授説に対して,愛媛大学 四国遍路・世界の巡礼研究センター 教授 胡 光は,周慶による製糖は黒砂糖であり,白砂糖が完成するのは後のこととし,関与した薩摩人は四国遍路で讃岐に来たものではないと,史料に基づき検証した上で,次の通り述べる。
高松藩の財政改革のもと,砂糖は綿,塩とともに主要商品作物とされ(後の讃岐三白),文政から天保期には
一茶が生まれた宝暦の頃,甘蔗栽培が讃岐から土居に伝播し,製糖技術も大内郡を中心とする東讃地区から西讃地区を経て,宇摩平野に伝わり,伊予国内に広まったとされている。
観音寺から土居,松山へと寛政紀行で一茶がたどった道筋を,時を同じくして,甘蔗の苗も西へと運ばれていたのかもしれない。
かくして,伊予の甘蔗栽培と製糖技術は,讃岐から土居を経て移入される。越智郡では今治藩による奨励策として蔗苗の交付もみられたが,砂糖を流通統制,専売制の対象とする施策を展開し,後に2大生産地となる讃岐,阿波ほどには,伊予での作付・生産が伸展することはなかった。
本邦内各地において,甘蔗栽培と砂糖製造の本格的な草創期となる寛政期(1789~1801年)。
世界に目を転じても,当時の植民地競争の中心は,欧州で消費が拡大した砂糖であった。
ジャワ島,西インド諸島などの熱帯,亜熱帯地域にあるプランテーションでのサトウキビ栽培が拡大し,砂糖の生産・輸出が激増した。
このような状勢について,植民政策学者の矢内原忠雄(1893~1961年)は述べる。
植民地貿易の中心が、サトウキビを原料とする甘蔗糖にあった1799年(寛政11年)。
ドイツで “砂糖革命” が起きる。
1747年ドイツの化学者マルグラーフがテンサイに糖分を発見し,1799年門弟のアハルトが甜菜糖の製造に成功する。
藩主ならぬ皇帝による作付・製糖の奨励策である。
一茶が西国を行脚した寛政期とは,このような “砂糖時代” であり,およそ70年後の明治期以降,日本が砂糖をめぐる植民政策と市場経済の渦に巻き込まれていく端緒となる時期でもあった。
白下糖を分蜜する “研ぎ” に職人の技が求められる “和三盆” で名高い香川県大内郡(現在の東かがわ市)の製糖業も,明治期に入り激震に見舞われる。
香川県大内郡相生村にあった製糖業 “岸野屋” も,開国後の自由貿易の荒波に耐えることができなかったのであろう。
この “岸野屋” に,明治22年(1889年)男子が誕生する。無教会主義キリスト教徒にして西洋政治哲学者であり,最後の東京帝国大学総長にして最初の新制東京大学総長となる南原繁(1889~1974年)である。大日本帝国憲法が公布された年に生まれ,歩みをともにすることとなる。
香川県立大川中学校(現在の三本松高等学校)を卒業し,第一高等学校に入学するまで,南原は郷里で過ごすが,母の愛に恵まれるものの,幸福な少年時代とは言えなかった。
母の実家たる製糖業は既に没落し,養子に迎えられた南原の父は放逸な性格のゆえに離別される。新たな夫を迎えるまで,母は裁縫により家計を賄い南原を育てた。南原が中学に進む頃には,製糖工場のあった家屋も売却,移転され,石垣の一部が残るのみとなった。
敗戦により物的にも精神的にも荒廃した日本において,南原は,新制東京大学の創立に向けて奮迅する。南原の理想の具現化として,教養学部が新設される。
昭和24年(1949年)7月 新制東京大学としての初めての入学式において,南原は教養学部設置に係る理念を演述する。
初代教養学部長として矢内原忠雄が就任する。矢内原は南原と同じく,一高校長の新渡戸稲造(1862~1933年)から思想的啓蒙を受けるとともに,内村鑑三(1861~1930年)の信仰に学び,無教会主義キリスト教徒となる。
明治30年(1897年)自らも第2期生として修学した札幌農学校校長を退任した新渡戸は,海外の植民地事情 “とりわけ熱帯植民地に対する産業政策” について視察した後,明治34年(1901年)台湾総督府殖産局長として台湾糖業に関する根本的方針となる “糖業改良意見書” を総督の児玉源太郎に提出。児玉がこの意見書の趣旨に“全面的に賛成し”台湾糖業振興策は着手される。(「近代日本糖業史(上巻)」)
新渡戸の国際連盟事務次長への転出に伴い,後任として植民政策を講ずることとなった矢内原は,昭和4年(1929年)代表作とされる “帝国主義下の台湾” を著し,台湾における資本主義化の発展過程を検証し,とりわけ 第2編 “台湾糖業帝国主義” において,糖業を中心として,帝国主義的発展過程を詳細に論じる。
昭和26年(1951年)南原の退任に伴い,矢内原は戦後第2代東大総長に就任する。総長就任早々に “東大ポポロ座事件” が生じ政治問題化するも,矢内原は大学の自治と学問の自由の堅守に尽力する。
一方で高揚をみせる学生運動に対しては,毅然とした姿勢を貫き,学生ストライキについて,いわゆる “矢内原三原則” を発し,厳格に対処した。
戦後の東大は,南原繁の就任から矢内原忠雄が退任する昭和32年12月までの間(1945~1957年),幕政期からの讃岐製糖業の系譜を継ぐ南原,明治期以降の台湾糖業政策に係る研究者たる矢内原と,2代続いて,戦前までの日本糖業史を体現したかの如き総長のもとに,教育制度の確立と学生運動への対処がなされたことになる。(つづく)
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