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甘蔗の道~1969年 唐牛健太郎の四国遍路(1)

“風のたより”に旅の途上にある人の消息を知る。
手のひらに収まる携行品が,所在を絶え間なく知らせる現代において,このような流儀は,もはや至難の芸当なのかもしれない。

“清川だし”(山形県庄内平野),“広戸風”(岡山県那岐山麓)と並び称される日本三大局地風のひとつ “やまじ風” の里 土居(愛媛県四国中央市)。
法皇山脈と燧灘(瀬戸内海)に挟まれたこの地域は,西条藩領に属する土居,入野,畑野と幕府領 浦山の各村が,明治22年(1889年)の市町村制の施行の際に合併し,新たな土居村として成立。
昭和29年(1954年)津根村,天満村,小富士村などと合併し,土居町となった。

寛政7年(1795年)旧暦1月に土居から入野にかけて吟行した小林一茶(1763~1827年)には,この地での消息不明の一晩があると,当地出身の歌人 山上次郎は述べる。

宝暦13年(1763年)信濃 柏原に生まれた一茶。
“黒姫山から吹きおろす「雪おろし」”(嶋岡晨「小林一茶」)が音を立てて抜けていく信越国境の里をひとり離郷したのは,15歳のとき。実母を3歳で亡くし,8歳のときに迎えた継母との折り合いが難しく,江戸での奉公を余儀なくされた。ここから,一茶の漂泊の人生がはじまる。

彼の生涯はほとんど放浪だった。たとえば文化十二年の記録に,三百五十四日の間に,在庵七十七日,他郷二百四十七日,翌十三年は,在庵百六日,他郷二百四十九日などと書いている。

25歳にして葛飾派 二六庵竹阿の門人となった一茶が,竹阿にならって西国行脚に旅立つのは30歳のとき。寛政4年(1792年)3月から足掛け7年におよぶ “寛政紀行” である。

讃岐 観音寺の五梅和尚のもとを出立したのは,寛政7年(1795年)1月8日(新暦2月27日)のこと。

一茶は観音寺をかなり早く発ったろう。第一日の目標は土居だったからである。いかに健脚でも観音寺から土居までは八里,かなりきつい行程である。

彼が土居を選んだのは,宿場があったことと,俳人山中時風がいたからであった。従って彼は途中何処へも寄らないで真っすぐに土居へ向っている。

1月8日晩は,土居の島屋という旅籠に宿泊したことは,一茶自身の記録から明かである。

九日の朝島屋を出た一茶は,真っすぐに南の山麓をめざす。そこには俳人時風の暁雨館があったからである。

時風のことは五梅和尚から十分聞いていたであろう。時風は俳句に優れているだけでなく,心をこめてもてなしてくれると……

山中家は1711年頃には,天満から入野に移り庄屋となる。山中時風(貞候)は幼い時分から才知に長けていたとみえ,11歳にして父 閑卜(貞興)の俳句の師である寶井其角の門人 松木淡々に入門する。

閑卜は庄屋というよりは俳人という方がふさわしい。入野に文化の芽を育て,俳人一茶をして杖を曳かしめた原動力は彼にあったといってもよい。

この閑卜と時風の親子は,入野の地を全国区の名所と成し,観光入込客数の増大を図ろうとした“地方創生事業”のプロモーターでもある。

閑卜と時風は俳諧を殊の外愛したが,同時に郷土をも愛した。具体的には入野の顕彰に全力をあげた。

入野は土居でも山際の貧村,とりたてて産物もなければ,きわだった景勝地もない。世に出そうとしても出す方法がない。

ところが学問のある人の着想は違う。閑卜は万葉集の人麿の歌の中に入野という地名のあることを発見する。しかもその入野が何処かわからない。

そこで,自分の住んでいる入野がその歌の入野とすれば一躍有名になると考えたのである。その歌は次の一首である。

さを鹿の入野のすゝき初尾花いつしか妹か手を枕かむ
(万葉集巻十の二二七七)

260年程前の地方創生への着想に水を差すようではあるが,念のため付言すれば,小倉百人一首に著名な “あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む” の歌は,万葉集(巻十一の二八〇二)では作者未詳とされているが,拾遺和歌集(恋三 七七三)では柿本人麻呂作となっている。

この点について,“さを鹿の……”の歌についても,万葉集では作者未詳とされているが,新古今和歌集(巻四 秋歌上 三四六)では人麿作とされている。このような事例はいくつかみられ,歌仙 人麻呂神話が独り歩きしたのでは,と指摘されている。

閑卜ら二人の気持ちとしては,この名歌の地名がわからないのは天恵だ。自分の治めている村が入野だ,すすきも一面に生えている。鹿もいる。ここでもいいではないか,と考えたのであろう。

親子は,この筋書きにお墨付きを得ようと,公卿に取り入るなどして,“万葉の人麿の入野” のご当地ということにする。
明和2年(1765年)閑卜51歳,時風28歳の大仕事であった。これが奏功したのか,30年後に入野を訪れた一茶も,すすきが原をたずね,記している。

此里は入野てふ名所にしあれば,世々風流人のことの葉のあれば,やつかれも昔ふりの哥一首を申侍る。

地元への貢献計り知れない山中家の屋敷 暁雨館に時風を訪ねた一茶であるが,肝心の寛政紀行には“九日入野の暁雨館を訪ふ”とのみ。

ただ「訪ふ」とだけで何も書いていない。

このことに関し,山中家の言い伝えとして

このとき時風は居留守を使って会わなかったという。一茶の服装があまりにも乞食然としていたのでいぶかったのであろう。

山上は  “寛政紀行中一茶の宿の不明確なのはこの一月九日だけである” とし,“一月九日の謎” について,自説を展開する。

すなわち次の句は,暁雨館での宿泊を断られた一茶が,その足ですすきが原に赴き,壺すみれを愛で,そのまま野宿したと解する。新暦の2月28日は,ツボスミレが咲くほどに温かかった。

はろばろに尋入野の壺すみれゆかりあればぞ我も摘みけり

野をなつかしみ一夜寝にけり

以上,山上次郎「一茶と山中家の人々」

入野での野宿の後,一路松山へ向かい,俳人 栗田樗堂のもとで逗留した一茶は,帰路45日ぶりに再び暁雨館を訪れ,時風のもとで3泊を過ごし,このときは野宿を免れた。一茶33歳のできごとである。

野天の一茶を慰めていたツボスミレの開花は,宇摩平野に生きる土居の領民に,里芋の種いもを植付ける“しるべ”であったのかもしれない。

やまじ風の烈風と灌漑用水の不足に悩まされる土地柄に,里芋は耐性のある作物。栽培の歴史は江戸時代初期にまでさかのぼり,優良品種 “伊予美人” の産地としていまに至る。

ねばりとほのかな甘みのある里芋。
暁雨館に滞在した一茶もお相伴にあずかったのであろうか。

更には,往路の “居留守” の詫びとして,あるいは西国行脚へのねぎらいとして,滋養分豊かな “黒い甘味” のもてなしを受けたのかもしれない。

宝暦に生まれ,明和に信濃 柏原での幼少期,安永から天明にかけて江戸での奉公と俳句修行,寛政に西国行脚,文化・文政期に柏原に帰郷し三度の婚姻を経た一茶の人生は,“砂糖国産化”の黎明期と伸展期に重なる。
この間に甘蔗栽培が普及するとともに,とりわけ寛政期は,国内製糖業の草創期となる時代である。

四国での寛政紀行の道筋は,そのまま蔗作と製糖の伝播の道のりでもある。土居,入野とその周辺を領分とした西条藩の藩主は,幕府による砂糖の国産化政策とも縁が深い。

寛文10年(1670年) 紀州和歌山藩の初代藩主 徳川頼宣の三男 松平頼純が,西条に入部したことにはじまる松平西条藩は,第2代藩主 頼致(1682~1757年)が,正徳6年(1716年)本藩 和歌山藩の第6代藩主 徳川宗直として家督を継ぐ。

正妻のない頼致ではあるが,西条藩主時代に見出し,和歌山に伴った女性との間に,第7代藩主となる宗将(1720~1765年)が誕生する。
この女性は,宇摩郡津根村八日市出身のお作(1702~1781年)という。

頼致とお作の出会いは

正徳4年(1714年)西条藩主松平頼致(よりよし)公が領内見廻り中水屋池に居合わせたお作(13才)に一ぱいの水を要求した。泉よりわき出し冷水を柄杓にてくみ捧げる。そのときの「しぐさ,行儀,その上器量よし」藩主に大変お気に入られ西条藩に召される。

愛媛県生涯学習センター「データベース えひめの記憶」Webサイト

かくして,八日市のお作は,紀州55万石宗将公の母 “永隆院” となる。
以後,紀州藩の藩主は,宗直の系譜と西条藩からの継嗣がつないでいく。

西条藩主 頼致が,和歌山藩主に就くに至る発端は,第8代将軍 徳川吉宗(1684~1751年)にある。
第7代将軍 家継が,8歳の幼若で世を去ったことから,紀州藩第5代藩主 吉宗が継嗣となった。

将軍 吉宗といえば,幕府財政の立て直しを図った“享保の改革”であるが,その一環として,蔗作と製糖の国産化が奨励された。

日本で砂糖が注目され始めるのは,一六世紀末から一七世紀初めにかけての頃からである。当時,世界有数の金銀の産出国であった日本は,東アジア海域での最大の輸出大国であった。その豊富な銀を輸出し,中国から生糸・絹織物が輸入され,一七世紀初めからは,砂糖も輸入された。

1656年頃の日本の砂糖輸入量を年約1,800tと推計し,イギリスの輸入量88t(1665年)と比較して,“恐らく日本は当時世界一の砂糖輸入国であったのではないか”との指摘がある。

経済大国だった日本はその砂糖を甚だ高価な価格で買っていたことである。ポルトガル商人がマカオで買い入れた白砂糖が,日本ではその一〇倍ないし二〇倍の値段で売れたといわれている。(中略)このことは,ヨーロッパでは有名だったようで,モンテスキューもその著『法の精神』(一七四八年)の中で,日本がいかに異常な高値で砂糖を買っているかを述べている。

以上,角山榮「お茶と砂糖とお菓子」

大量の銀貨が輸出され,国内の銀貨不足をおそれた幕府は,1668年銀の輸出を禁じ,砂糖輸入に制限を設ける。

外国商品の輸入が国富の損失をまねくとする意見も盛んにとなえられるようになった。そして,輸入制限の主張は,反面において輸入品国産化の必要を説くことになった。

社団法人糖業協会編「近代日本糖業史(上巻)」

近代日本糖業史(上巻)は,宮崎安貞『農業全書』(元禄一〇年刊)から次の通り引用する。

甘蔗は(中略)是常に人家に用ゆる物なるゆへ,本邦の貴践材を費す事尤甚し。是を種ゆる事よくその法を伝へ作りたらば,海辺の暖国には必ず生長すべし。若其術を尽して世上に多く作らば,みだりに和国の財を外国へ費しとられざる一つの助たるべし。

吉宗の主唱した製糖国産化
技術的に困難だったのが,黒糖から白糖への精製であるが,諸説あるも,成功は紀州からもたらされたとの説(角山榮)がある。

『紀伊続風土記』には,「元文四年,府下の安田長兵衛といふもの始めて甘蔗苗をうゑて,同五年に始めて砂糖を製し,寛政二年より其製法を諸州に伝ふ,皇国にて砂糖を製する始めといふ,今に至りて安田氏の家及海部名草二郡の農家にて黒白の二糖を製す」との記録がある。

山下奈津子「紀州藩における寛政期の砂糖生産について」(※ 山下は諸説ありとする)

元文期(1736~1741年)の紀州は,八日市のお作こと永隆院を見初めた宗直の治政である。

製糖国産化がいずれの藩の快挙であるのかは,それぞれご当地説があるものの,一茶が江戸を出立し,九州,四国を吟行していた寛政期には,甘蔗栽培の普及黒糖,白下糖,白糖の生産が,温暖な西南日本を中心に始まったとみられている。

やがて,いくつかの砂糖特産地が生まれた。とくに,白糖産地としての讃岐と黒糖産地としての薩摩の発展はいちじるしかった。その他の産糖地としては,駿・遠両州,紀伊,和泉,阿波,土佐,日向などの諸国を数えることができた。

ただし,各藩が秘匿とした製糖技術に相違があり,品質面での優劣がみられるなか,讃岐薩摩で顕著な発展をとげる。

讃岐では「製法上手なれば三品の上白迄も出来て,一廉の国産と」なった。

讃岐の白糖生産と薩摩の黒糖生産が他の産糖地にぬきんでて発展した理由としては,この二国に蔗作適地が多かったこと,また,製糖技術に工夫がこらされたことのほかに,それぞれの領主が砂糖生産を促進するために積極的施策をとったこともみのがしてはならない。

その場合,領主の関心は,砂糖の国産化そのものよりも,むしろ,領内の産糖を領主財政に寄与せしめる方向へもっていくことにあった。

いいかえれば,すでに砂糖が利益の多い商品であることを見こした上で,その利益を領主財政に帰属させよう,というのである。

伊予の土居と同じく,灌漑用水に恵まれない讃岐においては,高松藩主の主導により製糖技術の研鑽と商品化が進められた。

讃岐高松藩領は,元来,水利に乏しく,しばしば旱害をまねき,そのために藩経済の発展が少なからずさまたげられていた。宝暦年間(1751~1763年)にいたり,第5代の藩主 松平頼恭は,領内の右のような土地がらに適する作物として甘蔗に着目し,さかんに試作せしめ,好結果をえた。

そこで,頼恭はさらに領内に製糖をおこす準備を進めた。

寛政2年(1790年)大内郡三本松村(現在の東かがわ市)の医師 向山周慶が,白砂糖の製造に成功したとの説がある。

周慶が製糖法を知るいきさつとして

京都遊学中に薩摩の医生と交誼をむすんだことや,故郷(大内郡湊村)で四国遍路の途上で病んだ薩摩人良助を救ったことなどが,薩摩の蔗作・製糖法を知る機縁になった,という口承が伝えられている。

以上,社団法人糖業協会編「近代日本糖業史 上巻)」

この四国遍路による白砂糖精製技術の伝授説に対して,愛媛大学 四国遍路・世界の巡礼研究センター 教授 胡 光は,周慶による製糖は黒砂糖であり,白砂糖が完成するのは後のこととし,関与した薩摩人は四国遍路で讃岐に来たものではないと,史料に基づき検証した上で,次の通り述べる。

讃岐製糖と四国遍路を結びつける考え方は,幕末には生まれていて,明治時代中期の殖産興業政策の中で定着していったと考えられる。

讃岐砂糖製造と四国遍路は無関係だった可能性は高いが,常に四国の食文化と四国遍路の関係がとりざたされるのは,それだけ多くの人々が四国を訪れ,交流を持ったこと,四国遍路は四国の文化そのものであることの証左と言える。

胡 光「四国遍路と食文化 ―讃岐製糖の新資料をめぐって―」

高松藩の財政改革のもと,砂糖は綿,塩とともに主要商品作物とされ(後の讃岐三白),文政から天保期には

讃岐産砂糖は江戸・大阪において「和製之第一等」として好評を博し,供給量でも他を圧する”地位を占める。

社団法人糖業協会編「近代日本糖業史(上巻)」

一茶が生まれた宝暦の頃,甘蔗栽培が讃岐から土居に伝播し,製糖技術も大内郡を中心とする東讃地区から西讃地区を経て,宇摩平野に伝わり,伊予国内に広まったとされている。

「宝暦年間讃岐地方より甘蔗伝入し,天明より稍々作る段別増加して文政5年頃に製糖法を伝え,作付者著しく増加するに到れり」と,斯くの如く当初宇摩郡土居町地区に製糖業が伝わった事は明らかであり,又その当時蔗苗等も観音寺方面より船で天満村迄運び陸揚げしていた様に伝えられている。

而して之等の甘蔗糖業が当時の往還であった琴平街道又は松山街道をとおって,漸次西にひろまり(中略)愛媛県の糖業が宇摩郡より西へ伝わった。

大庭景利「四国製糖史」

観音寺から土居,松山へと寛政紀行で一茶がたどった道筋を,時を同じくして,甘蔗の苗も西へと運ばれていたのかもしれない。

かくして,伊予の甘蔗栽培と製糖技術は,讃岐から土居を経て移入される。越智郡では今治藩による奨励策として蔗苗の交付もみられたが,砂糖を流通統制,専売制の対象とする施策を展開し,後に2大生産地となる讃岐,阿波ほどには,伊予での作付・生産が伸展することはなかった。

本邦内各地において,甘蔗栽培と砂糖製造の本格的な草創期となる寛政期(1789~1801年)。
世界に目を転じても,当時の植民地競争の中心は,欧州で消費が拡大した砂糖であった。

ジャワ島,西インド諸島などの熱帯,亜熱帯地域にあるプランテーションでのサトウキビ栽培が拡大し,砂糖の生産・輸出が激増した。

このような状勢について,植民政策学者の矢内原忠雄(1893~1961年)は述べる。

十六,十七世紀の各国の植民地競争は金銀の外には嗜好品を目当てとして行われ,その中心は砂糖であった。現代,世界大戦前後の植民地活動を称して「石油帝国主義」といひ,十九世紀のそれを綿花時代といひ得べきに対し,重商主義下の植民地活動をば砂糖時代と名付くるも敢て過言ではあるまい。而して第十八世紀末に於ける世界産糖の状態は(中略),仏領植民地を第一とし英領之に次いだ。然るにナポレオン戦争による大陸封鎖の結果,大陸諸国は植民地糖の輸入を妨げられ糖価の甚だしき騰貴を見た。

植民地貿易の中心が、サトウキビを原料とする甘蔗糖にあった1799年(寛政11年)。
ドイツで “砂糖革命” が起きる。

こゝに忽焉として甘蔗糖に対抗するものの現れがあった。甜菜糖之である。

1747年ドイツの化学者マルグラーフがテンサイに糖分を発見し,1799年門弟のアハルトが甜菜糖の製造に成功する。

それは砂糖生産の植民地を有せざりしドイツの実験室的「砂糖植民地」であった。

封鎖に因しみし大陸諸国は熱心に甜菜糖業を起さんとし,プロシア王フリードリッヒ・ウイルヘルム三世はその為に,宮廷所有地及び工場建築資金を与へ(一八〇一年),殊に仏国に於てナポレオン一世は強制的に甜菜栽培を命じて大に製糖を奨励し,オーストリアにも亦甜菜糖業が起つた。

以上,矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」

藩主ならぬ皇帝による作付・製糖の奨励策である。

一茶が西国を行脚した寛政期とは,このような “砂糖時代” であり,およそ70年後の明治期以降,日本が砂糖をめぐる植民政策と市場経済の渦に巻き込まれていく端緒となる時期でもあった。

白下糖を分蜜する “研ぎ” に職人の技が求められる “和三盆” で名高い香川県大内郡(現在の東かがわ市)の製糖業も,明治期に入り激震に見舞われる。

讃岐の砂糖は「和製糖」の中心であり,明治18年(西紀1885年)には讃岐一国で全国産額の72.5%を産したといわれている。そして明治10年前後が讃岐糖業の全盛期で,その後は輸入糖に押され漸次衰退に向って行ったのである。

大庭景利「四国製糖史」

開港以前にも,長崎における清国・オランダとの貿易を通じて,いわゆる唐紅毛砂糖が輸入されていた。しかし,幕府がその輸入量を制限し,さらに取引方法についてもきびしく取締まっていたので,唐紅毛砂糖が国内市場に広く行きわたるまでにはなっていなかった。(中略)江戸中期以降,讃岐・阿波・薩摩をはじめとして各地に砂糖生産が発展するにおよんで,唐紅毛砂糖はむしろ国産糖に駆逐される有様であった。

ところが,開港によって,諸外国との自由な貿易がはじまると,事態は根本的に変った。砂糖輸入量は,たちまち従来の水準をはるかに超え,また,その価格は,国産糖に比してきわめて低廉であったために,国内生産に深刻な打撃を与えることになったのである。(「近代日本糖業史(上巻)」)

社団法人糖業協会編「近代日本糖業史(上巻)」

 香川県大内郡相生村にあった製糖業 “岸野屋” も,開国後の自由貿易の荒波に耐えることができなかったのであろう。

家業は代々砂糖の製造業であり,自分の家でも作るのはもちろん,近村で買い集めた甘蔗から,自分の工場(「締場(しめば)」と称す)で製造するのであるが,その精製品が有名な「讃岐三盆」の名あり,これを船に積んで大阪に渡り,小判にかえて帰るという順序で,言わば農工商を兼併した封建時代の固有の企業組織であったらしい。屋号を「岸野屋」と称え,私の子供のときにも,なおその名で村の人々は私の家を呼んでいた。

然るに,明治になってから,そうした企業組織自体が困難になったためと,今一つには家族に浪費者が出たことによって,事業は衰微し,産は傾き,遂に没落の一路をたどった。

 この “岸野屋” に,明治22年(1889年)男子が誕生する。無教会主義キリスト教徒にして西洋政治哲学者であり,最後の東京帝国大学総長にして最初の新制東京大学総長となる南原繁(1889~1974年)である。大日本帝国憲法が公布された年に生まれ,歩みをともにすることとなる。

香川県立大川中学校(現在の三本松高等学校)を卒業し,第一高等学校に入学するまで,南原は郷里で過ごすが,母の愛に恵まれるものの,幸福な少年時代とは言えなかった。

母の実家たる製糖業は既に没落し,養子に迎えられた南原の父は放逸な性格のゆえに離別される。新たな夫を迎えるまで,母は裁縫により家計を賄い南原を育てた。南原が中学に進む頃には,製糖工場のあった家屋も売却,移転され,石垣の一部が残るのみとなった。

母は折々右の図面を取り出したり,あるいは石垣のことなどによって,家の歴史を物語り,将来は勉強して立派に祖先の跡を再建するようにと訓るのであった。少年の私は,いかに興味と感激を以てそれらの物語に聴き入り,それを以て自分の将来の理想としたか知れぬ。この理想は中学時代を通して私を支配した生活信条ともいうべく,否,高等学校に入学して上京した時分にもなお持続し,時にはこれら先祖の家や屋敷を買い戻し,立派に一家を再興したときの未来を頭の中に想像して,楽しい甘い空想に耽ったことも幾度なるかを知らない。

南原繁「わが歩みし道 南原繁」

敗戦により物的にも精神的にも荒廃した日本において,南原は,新制東京大学の創立に向けて奮迅する。南原の理想の具現化として,教養学部が新設される。

昭和24年(1949年)7月 新制東京大学としての初めての入学式において,南原は教養学部設置に係る理念を演述する。

「重要なことは,自然・人文・社会を含めて,互いに補い協力し,人間と世界についてもろもろの価値や全体の理念を把握する」ことであり,「個々の科学的真理をどこまでも探究し追究すること自体ではなく」「むしろすでに知られている知識を各分野,さらには全体にわたって総合し組織化し,以って時代の到達した知識の水準と文化の特質を理解せしめることである。」
「これは将来いかなる専門家や職業人となるにしても,およそ時代に生きんとする人間としての学生一般に対してである。かれらはそれによってその生きる社会と世界に対する自らの精神態度を培うことができ,また将来の専門的研究に対する一般的基礎を獲得することができるであろう。他方にこれが教育に携わる者の役割は,おのおのが一個の科学者・研究者としてよりも,あるいはそれと同時に,言葉の正しい意味においてのプロフェッサー(教授)たることである。かれらはまず自らが真に教養された人間であって,人生と世界についての確固たる精神と目標を持つことが要求せられるであろう。
 かような構想と目的とをもって,わが「教養学部」は創設されたのである。(中略)従来の総合大学を初め,今回全国に設置された新制諸大学を通じて,かかる名の学部を持つのは本学をもって嚆矢とする。再建東京大学の将来は,この新しい学部の今後の運営と成長に依存すること,まことに大きいといわねばならぬ」。

今田晶子「新制東京大学の創設と総長南原繁のイニシャチブ ― 教育改革を中心に ―」

初代教養学部長として矢内原忠雄が就任する。矢内原は南原と同じく,一高校長の新渡戸稲造(1862~1933年)から思想的啓蒙を受けるとともに,内村鑑三(1861~1930年)の信仰に学び,無教会主義キリスト教徒となる。

明治30年(1897年)自らも第2期生として修学した札幌農学校校長を退任した新渡戸は,海外の植民地事情 “とりわけ熱帯植民地に対する産業政策” について視察した後,明治34年(1901年)台湾総督府殖産局長として台湾糖業に関する根本的方針となる “糖業改良意見書” を総督の児玉源太郎に提出。児玉がこの意見書の趣旨に“全面的に賛成し”台湾糖業振興策は着手される。(「近代日本糖業史(上巻)」)

新渡戸国際連盟事務次長への転出に伴い,後任として植民政策を講ずることとなった矢内原は,昭和4年(1929年)代表作とされる “帝国主義下の台湾” を著し,台湾における資本主義化の発展過程を検証し,とりわけ 第2編 “台湾糖業帝国主義” において,糖業を中心として,帝国主義的発展過程を詳細に論じる。

昭和26年(1951年)南原の退任に伴い,矢内原戦後第2代東大総長に就任する。総長就任早々に “東大ポポロ座事件” が生じ政治問題化するも,矢内原は大学の自治学問の自由の堅守に尽力する。

一方で高揚をみせる学生運動に対しては,毅然とした姿勢を貫き,学生ストライキについて,いわゆる “矢内原三原則” を発し,厳格に対処した。

戦後の東大は,南原繁の就任から矢内原忠雄が退任する昭和32年12月までの間(1945~1957年),幕政期からの讃岐製糖業の系譜を継ぐ南原,明治期以降の台湾糖業政策に係る研究者たる矢内原と,2代続いて,戦前までの日本糖業史を体現したかの如き総長のもとに,教育制度の確立と学生運動への対処がなされたことになる。(つづく)


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