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興亡 潮流と電流~名も奇抜なる瀬戸内海横断電力株式会社(3)

四国側で発電と送電を担うことになる伊予鉄道電気株式会社。
明治20年(1887年)松山の小林信近が創立した伊予鉄道株式会社と,明治34年(1901年)同じく小林が主導して設立した伊予水力電気株式会社が,大正5年(1916年)両社合併し,存続会社の伊予鉄道が商号変更して発足した。

伊予水力電気の設立と合併消滅に大いに関係するのが,電気王 才賀藤吉。
奥方の出身が松山ということも機縁となり,小林を支援し自らも出資して同社の監査役に就任。
しかし,同社は才賀電機商会の破綻の影響を受けて経営難に陥る。小林の後任として伊予鉄道の社長に就いた井上要が,伊予水力電気の社長を兼任して,合併を成立させた。

井上は伊予鉄道の経営に従事しながら明治35年(1902年)から衆議院議員を3期務めた後,後継者に才賀を指名。才賀も愛媛県郡部選挙区から出馬し3期連続当選を果たすものの,この間に経営破綻し病没に至る。もはや“浮き沈みの大きい”どころの人生ではない。

井上が往時を回顧して称した“名も奇抜なる瀬戸内海横斷電力株式會社”は,“四國今治市の北方波止濱から馬嶋,中戸島,大島,伯方嶋,津波島,赤穂根島,岩城島,井口嶋,因島,向嶋の各島を架空線によって四國中國間送電連絡の鐵塔建造設計”(「瀬戸内海横断架空線電力輸送」)を策定し,鉄塔建設工事に着手。馬島に塔高220尺(約67m),波止浜に210尺(約64m)を誇る送電鉄塔を据付け,大正13年(1924年)鉄塔建設が完工し,架線工事を待つまでとなった。

工事に並行して瀬戸内海横断電力は,広島全県下を区域とする50馬力以上の動力供給権を政府に申請した。井上曰く

その昔此地を占據せる豪族が海から陸へ其権力を伸ばしたる如く,同會社の新井氏は大に中國本土へ進出を企てた。則ち同氏が我會社より買へる電力を以て廣島電氣會社の勢力範圍たる藝備一面に其供給権を握り同會社の向ふを張らんとしたのである。斯くては一敵國が其領土を掠奪せんとするのであるから廣島電氣が大人しくして居るはづがない。

両會社の接觸,衝突は危機一髪の間に迫り戰火將に揚らんとする場合となつた。

井上要「伊豫鐵電 思ひ出はなし」

“しかし,もともと,海上に点在する島々に送配電線をめぐらし,電気を供給する事業は経営的にみて効率が悪く,しかも,松山から尾道まで,海上150㎞をこえる送電線を架設するには多額の設備投資を必要とし(来島海峡の3基の鉄塔工事のみで約37万を要した),その投資効果があらわれるまでの経営面での圧迫は充分予測されるところであった。

はたせるかな,瀬戸内海横断電力は次第にその経営内容を悪化させ,ついには,資金の欠乏から,社長新井栄吉がその所有株式を手放さざるをえない事態に追いこまれたのである。

これを買収したのが広島電気であった。大正13年4月のことであるが,その直後,さきに申請していた50馬力以上動力供給権が,尾道・福山両市ならびに周辺郡部において認可されたのであるから,瀬戸内海横断電力,とくに新井栄吉にとっては,皮肉な運命というべきであろう。

中国電力株式会社「中国地方電気事業史」

広島電気の軍門に下った瀬戸内海横断電力は経営陣を更迭され,広島電気陣営に一新。芸予諸島へは広島側から送電されることとなり,伊予鉄道電気からの受電計画は放棄され,送電線架空工事も中断された。
その後,昭和12年(1937年)瀬戸内海横断電力は広島電気と合併し消滅した。

潮流渦巻く島々をめぐる電流戦に勝負あり。これにより,芸予諸島の愛媛県側島嶼で現在 今治市に属する大三島,伯方島,大島へは,四国側からではなく,広島県側から給電されることとなり,現在に至っている。

芸予電力合戦について,井上曰く

新井氏は戰を挑みながら終に敵に降伏した姿であつて,廣電は剣戟相見へんとする其瞬間に敵の本城を甘く乘り取つた事實に違ひはない,是に於て事態は全く一變した。

折角に建設した大鐵塔も立枯れに任せるやうに打ち捨ておくことゝなつた。

何時かは之れが亦四國中國の送電連絡統制に用ひらるゝことがあらう,而して私は必ずその時期の來るべきを信じ且望むものである。

世界の公道たる瀬戸内海に入りて船の一たび來嶋海峡に進むや群嶋相擁して風光最も佳く,潮流急にして飛沫時に舷を洗ふ,此時甲板に於て眼を左右に放てば南北の山上高く天を摩す鐵塔の聳つを見るであらう。

井上要「伊豫鐵電 思ひ出はなし」

井上が讃えた来島海峡の“摩天楼”の命運であるが,その思い通じることなく,昭和19年(1944年)まで野ざらしにされた後,戦時下の金属類回収令により撤去されるに至った。 

送電鉄塔もまた,時代の奔流に身を晒しての興亡を免れなかった。(つづく)

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