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カンムリキンバイ|写真を撮ること

昨日カンムリキンバイを一輪生けてみたら、部屋が一気に明るくなりました。鉢の花を切って生けるときは、緊張がありますね。

いままで鋏は、普通の紙などを切る鋏を使っていました。でも、花を切る機会を得るようになって、用途が異なれば鋏にも草木にもよくないだろうと考えて、燕三条の植木鋏を購入してみました。外山刃物さんの四代目秀久です。(写真がもう美しい……)https://www.toyamahamono.com/

毎日の水切りでは、気持ちいいくらいの切れ味を発揮してくれていて、花も前よりも長く元気で居てくれているような気がします。


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写真はヒオウギアヤメですが、連日の強風で、こころなしか花葉がしおれてしまっています。カンムリキンバイなどは、花弁が散ってしまっていました。これから台風の時期だけれど、みなさんどうしているのだろう……。

菖蒲は、ひとつの蕾房?から2つも3つも花を咲かせるのですね。ひととおり咲ききったか?というところで、房がふくらみはじめました。このあとどのようになっていくのか、想像できず、たのしみです。

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花を育てるようになって、自然と花を撮る機会が増えました。当たり前のように写真を撮っているけれど、そういえば「写真を撮る」こととは、どういうことなのだろう?

”「ない」という言葉の過去形は、「なかった」ではなく「あった」という言葉である”ということを、わたしは高橋睦郎さんの詩と、それを引用した四方田犬彦さんのテキストから教えられました。

写真というものは、まず、写真家にそれを撮ろうと思わせるなにか、の力と写真家がそこに見たなにか、の意図が入れ込まれたものなのかもしれないと考えます。

もし写真家が見たものや、その考えが写真に入り込むのだとしたら、写真というのは「現実」を必ずしも、そっくりそのまま反映したものではないのかもしれません。この考えを知人の写真家に伝えてみたのですが、その人は「「不在」の写真に「あったかもしれない」を差し入れたいと思っています」と答えてくださいました。そう考えると創作・アートとしての「写真」の意味がよくわかる気がします。

花にしろ、風景にしろ、「人にそれを撮ろうと思わせるなにかの力」があるのだとすれば、その力を形にするのがアートなのかなと思います。わたし自身は創作活動をしている人ではないけれど、そんな私でも、わたしに影響を与えている力を見つけて、それをなにかの形にできればいいなと考えるのです。

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