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ヒオウギアヤメ|読んでいるあいだ、見ているあいだ、歩いているあいだに思い出すあれこれについて

ヒオウギアヤメの花芽の先に、紫色が見え始めました。開くのが待ち遠しいです。毎朝、花に水をあげてぼんやりする時間が楽しみになってきました。花を見ていると、その間にいろんなことを考え始めたり、思い出したりするようになりました。この時間は、私が本を読んでいたり、アートを見ていたり、旅をしていたりする時間に似ているなと感じます。

「思い出す」というのは偶然と必然が絡み合った不思議な出来事だと思います。脈略のないものが頭の中に「ぽん」と浮かぶ。学生時代のこと、友達のこと、忘れていた会話のこと、両親のこと、気付きやアイデア……時系列も文脈も無視してポンポンと頭に浮かんでくるこれらのことには、驚きつつも親しみを持っています。あまりに脈略もないこの来訪者は、次の瞬間消えるように居なくなり私の方も忘れてしまうので、「は」と思いついてはすぐに書き残すようにしています。

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いまテッド・チャン『あなたの人生の物語』を読んでいます。

思い出されるように挟み込まれる過去と目の前の時系列の事象を編み込んだストーリーは、とても美しくて、読んでいて涙が出てしまう。映画をもう一度見たいと思います。


どうしてもメモしたい一文をメモさせてください。

だが、言語はコミュニケイションのためだけのものではない。それは行動の一形態でもある。発話行為仮設に従うなら、”お前を逮捕する”、”私は船に命名する”、”わたしは約束する”といった言明はすべて遂行文だ。話者は、その言葉を発することによってのみその行動を遂行することができる。この種の行動に関しては、何が言われるかを知っていることは何も変えはしない。結婚式の参加者はみな、”わたしは、お二人の結婚が成立したことをここに宣言いたします”という言葉を知っているが、実際に聖職者がそれを言わない限り婚儀は成立しない。遂行文においては、言うことはすることに等しい。
ヘプタポッドたちの場合、言葉はすべて遂行文だ。”それら”は伝達のために言語を用いるのではなく、現実化するために言語を用いる。どんな対話においてもそこで言われることをヘプタポッドたちがすでに知っているのはたしかだが、その知識が真実であるためには現に対話がなされなくてはならないのだ。

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