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今月の本幹がとてつもなく酷かった

7月度の本部幹部会を視聴しました

体験は素晴らしかったです(引っかかる部分はありましたが)

が、幹部の挨拶が酷すぎると感じました

本当は投稿2本目でこんな記事を書きたくないのですが、あまりにもがっかりしたので書かせてください

週刊誌レベルの男子部長

西方男子部長の挨拶(聖教新聞より引用)

一方で野党はどうか。日本共産党と共闘した立憲民主党は、28人が立候補し、当選したのは半分の15人。6日付の読売新聞では“立民は国政の野党第1党としては物足りない結果”“無党派層の支持に広がりがないのは深刻”と分析し、「衆院選での野党共闘につなげる狙いがあるが、支持団体の連合は反発」と報じています。さらには“政権選択選挙である衆院選で(共産党と)連携するのなら、憲法や外交・安全保障など基本政策の違いをおざなりにしてはなるまい”と鋭く指摘しています。
 私たち男子部は、ウソやデマの実態を鋭く見抜き、引き続き正義の言論で糾弾してまいりたい。公明党こそ、コロナ禍という未曽有の国難を乗り越えるための「羅針盤」であり、与野党の中で群を抜く「実績第一の党」であることを強く訴え抜こうではありませんか。

聖教新聞は抜粋なので、放映では省かれていた場面がありました。その部分を簡単に説明すると以下のようになります。

・悪夢の民主党政権を繰り返してはならない

・今回野党連立政権が誕生すると共産党が入り日本は二度と蘇生できなくなる

・共産党は党大会で革命を目指すことを決議している


まあ下から3つ目は事実なんで、まあそうとしか言いようがないですが。

引っかかった点を挙げていきます


1.読売新聞の記事を引用=自分たちに都合のいい媒体が書いた内容を元に主張を展開

まあ、本部幹部会がそういう場と言ってしまえば全てですし、どこの組織も同じようなことはしているのでこれが悪いとは言いません。

ただ読売新聞は自民よりの媒体でそこに頼った論戦を張るのは危険性を感じます。なぜなら、ある一方からの見方でしか物事を見ていないから。

確かに今回の選挙で立民は議席を増やしましたが、有権者の受け皿として十分に機能を果たしたかといわれると疑問符がつきます。併せて、共産党との連携に対する指摘も間違ってはいないと思います。

が、これらは全てブーメランとして返ってくるものです。確かに自民公明は考え方に果てしない差がありますが、歩み寄ろうと努力してきた実績はあります。ただ、御用新聞片手に安易な批判を繰り返すのは野党とやってる事が同じ。程度が低すぎます。その辺のダメージコントロールは考えているのでしょうか。


2.この後引用文ではカットされていますが、「悪夢の民主党政権」「二度と蘇生できなくなる野党連合政権」と批判を重ねていますが、具体的な内容はありませんでした。

そして次のように総括しています。

ウソやデマの実態を鋭く見抜き、引き続き正義の言論で糾弾してまいりたい

「悪夢の民主党政権」「二度と蘇生できなくなる野党連合政権」とレッテルを貼ることが「正義の言論」なのか。私にはそう思えません。やってる事が週刊誌レベルです。

「立正安国」の大義を掲げ、正義を貫こうと呼びかける男子部長がこのレベルなのかと失望しました。

まあ、あえてこうやってるんですけどね、この人は。というか、このポジションにつくと、そういう話をせざるを得なくなるんでしょうけど。でもそれってどうなのよって強く思います。


言論封殺に躍起な会長

会長指導で引っかかった点は3点あります。

異例ずくめの逆境を前に、傍観者を決め込む言い訳など、いくらでもあるでしょう。もっともらしい批判や文句を隠れ蓑にして、逃げを打つこともたやすい。しかし、地涌の使命に立つ私たちは、一人一人の執念の祈りと行動、そして全同志の異体同心の団結によって、下馬評を完膚なきまでに覆し、痛快なる大逆転勝利を収めることができました。

戦う前に諦めず、勝利を信じて最大限の努力をし続ける。その姿は美しいです。

が、一方で、この言い方は、公明党の支援活動に協力的でなかった人を批判しているようにもとれます。異例づくめの逆境だからこそ、今まで支援活動に全力を尽くしてきた人達も、公明党に支持できない部分があり支援できなかったのではないか。飲食店経営してたり従事したりする人は尚更そうではないのか。そういう人たちへの配慮があまりにも無いのではないか。そう感じてしまいます。

あとは、支援活動に全力を尽くすのが当然みたいな雰囲気はありますよね。以前はここまでではなかった感覚なのですが。現場レベルでもそこまでガツガツ支援活動推し進めるって感じではなかったですし。得票数落ちたことに焦ってるのかと勘ぐられても仕方ないものの言い方でしょう。


これまで池田先生が、折々に教えてくださった通り、広宣流布とは、単に学会員の拡大を意味するだけではありません。社会的腐敗を正し、民衆が主役の時代を開くために、政治、教育、芸術など、あらゆる分野に進出し、妙法の人間主義を開花させゆく、その“流れ”それ自体が、「広宣流布」であります。
すなわち、私たちの推進する支援活動は、「仏法の慈悲を根底にした人間主義の政治」を実現するための、宗教運動の一環であり、だからこそ、まず何よりも、私たち自身の人間革命――言い換えれば、祈りを根本に、全ての人の仏性を信じ抜き、あらゆる差異を超えて友情を広げる中で、自己の境涯を広げゆく実践こそ、根本中の根本であります。そして、そこにまた、仏縁が結ばれ、学会への理解と共感が広がっていくのであります。

上段は一点だけ。

「社会的腐敗」本当に正せてますか?

下段は、会長の話聞いただけなら本当にそうだと思えるんですが、いかんせんタイミングが悪い。男子部長が散々立民共産をこき下ろした後にこのセリフ聞くと、「あらゆる差異越えていく気ねーなこいつら」としか思えません。まあ両立するんでしょうけど。真っ当な批判なら、という条件付きですがね。あんな週刊誌レベルの罵倒の後にこれ聞いても鼻で笑われるだけです。

まあ立場的にそう言わなきゃいけないだけで、会員に個別指導したり異なる属性の方との対話をしたりする時は温厚にやられてるんでしょうけどね。

でもそんなタカ派な姿勢を誰が求めているんでしょうか。求めている人がいるんでしょうね。たくさん。


だからこそ今、私たちは、勝利のため、また、自分自身の一生成仏のために、改めて「団結」の重要性を確認し合っていきたい。
 先生は小説『新・人間革命』第30巻の〈上〉で、こうつづられています。
 「活動を進めるうえで、いちばん心しなければならないのは、自分の意見が受け入れられないことで、失望感をいだいたり、感情的になって人を恨んだりしてしまうことです。それは、自分の信心を破るだけでなく、広宣流布を破壊する働きになっていく」と。
 そして、次のように結論されます。「今日は、将来のために、広宣流布をめざすうえでの、最第一の鉄則とは何かを、あえて言い残しておきます。それは、金剛不壊の異体同心の団結です」
 このご指導は、今の私たち一人一人、そしてまた、未来永遠に連なる池田門下が受け継ぐべき、最重要の指針と拝すべきであります。さらにまた、先生は、退転・反逆の方程式を、こう喝破されています。
 「自分中心になると、御書や学会指導に立ち返ることも、異体同心を第一義にすることもなくなってしまう。つまり、本来、仏法者の基本である、自身を見つめ、内省するという姿勢が失われていく。また、自分の心が“師”となってしまうから、自身を制御できず、その結果、我欲に翻弄され、名聞名利に走ったり、自分勝手なことをしたりする。そして、皆に迷惑をかけ、さまざまな不祥事を引き起こす。だから、誰からも信用されなくなり、清浄な学会の組織にいられなくなる――これが退転・反逆していく共通の構図といえます」という大事なご指導であります。
 さらに、近年の反逆者らがさらす醜態を見れば、そうした「自分中心」の者は、組織運営上の方法論や諸課題、あるいは公明党の政策などへの賛否などを大義名分に利用して、己の後ろめたさを覆い隠し、自己正当化を図ろうとするのが常套手段であることも、皆さま、ご存じの通りであります。

最も違和感を覚えた塊がこちらです。

池田先生の指導を自分たちの都合のいいように切り取り解釈していると感じたからです。

順に説明します。


池田先生の指導はその通りで、自分も学会に疑問を持ったり批判的になったりした時は必ずここの部分を反芻します。それでも、正義感から「おかしいことはおかしい」と言いたくなる時があります。それを踏まえて建設的な対話を重ねていくのが人間主義の組織の大前提だと考えています。

そこがあるのが学会の強みで、ほかの団体とは一線を画す部分だと思っていました。

しかし、今回の本幹で会長は先生の指導を引用したあと、「自己中心」の者は云々と話しています。これは穿った見方をすると、学会の意に沿わない意見を言う人は退転者だ!!と言ってることと、どう違いがあるのでしょうか。

私ら一般会員は「近年の反逆者」と言われてもなんの事だかさっぱり分かりません。精々、足軽会とか、れいわから出馬した人くらいです。

そんなことはどうでもいいのですが、「自己中心」って解釈次第でいくらでも広げられるってことを危惧しています。幹部の挨拶の流れだと、支援活動に協力しない人は退転者・反逆者と決めつけられそうな印象です。

建設的な対話をしようとしても応じて貰えず、意図的に孤立させられ居づらくなるパターンです。まあ現場は何だかんだでそんなことさせないんですけどね。

ただ事実として残しておきたいのは、建設的な対話をする気がないという点です。具体的には「内省する姿勢」を頑なに見せないことです。

男子部長、会長の指導を今まで見てきましたが、公の場で自らの落ち度や課題を認めることをしてきた記憶がありません。

学生でも社会人でも「至らない部分はありますが、こういう風に努力していきます」というものの言い方をするのが一般的です。

ですが学会は頑なに、自身の正当性、正義を振りかざしてばかりです。そんなに弱みを見せることができないのでしょうか。

もちろん学会が内省していないと思ってはいません。でも、そのプロセスが表に出てこないことに気持ち悪さを感じます。「内省しているプロセス」を見せないからこそ、会員の心が離れていくのではないでしょうか。

まあこの辺は、卵が先かニワトリが先か、みたいな話にも繋がりますが。


誰に向けての本部幹部会なのか

本部幹部会は全会員が視聴することができるようになっています。ということは、自分が折伏して、入会した友人を連れてくることになります。

では今回みたいな内容のビデオをその友人に胸張って見せられるでしょうか?


私は無理です。絶対無理です。


過激思想を持った人たちの集まりにしか思えません。前半の体験と和太鼓演奏だけで十分です(まあそういう見せ方もできるんですけどね)。


幹部会という名称がついているので、バリバリ活動している人に向けてのものだと思っています。つまり、これについて来れない人がいても大丈夫ですだと思ってやっていると思います。

でも、いつまでこんなやり方続けるんですか?目先の勝利に躍起になって、未来への敗北の因を積んでいませんか?

今は色んな媒体から好きな時にいつでも情報を手に入れることができます。ただ、高齢者の方はやはり旧来のメディアに頼る部分が大きく、こうした扇動的な会合で士気が高揚するのでしょう。

ただ、敏感な青年までは騙せません。

嘘やデマに敏感ですから。

そう考えると今の方針は、真面目に政治を考え憂う青年を切り捨て、政治については何も考えず票を集めてくれる人達を囲いこもうとしていると思われても仕方がありません。

しかしそれが本当に広宣流布の戦いなのでしょうか。宗教活動なのでしょうか。

「青年よ、政治を監視せよ」

とは戸田先生の遺言とも言うべき言葉です。

支援の時に公明党の実績読んで「コウメイトウノジッセキスゴイ!」とある一面からしか情報を得ず支援ばかりする姿のどこが、政治を監視しているのでしょうか。

前述した、建設的な対話をする気がない、内省する姿勢を見せないと言及しましたが、それはここにも当てはまります。

確かに幹部は話を聞いてくれます。報告もしてくれます。フォローもしてくれます。

でも組織としてはなんのリアクションもないことがほとんどなんですよね。いや、まあ組織ってそういうもんですけど。

ただ、内省する姿勢を見せない組織というのは、どこか恐怖すら感じます。権威的と言っても過言ではありません。

この権威性をどう克服していけるか。

それを1個人がアクション起こすべきことなのか。

自己のアイデンティティと組織への忠誠はどう保つのか。

その辺は今後の「学会としての」課題だと思っています。


そして空気な女子部


なんかもうね、女子部は華!みたいな感じの扱いなわけなんですよ……

ジェンダー観が古すぎる……

まあ年内に女性部になるのでその辺が改善されることを期待しています!

そんな感じの本幹でした