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幸せになれる家~ホラー短編小説~

『先生。ぼく、今幸せなんだ』

 健太くんはそう言って笑った。目の下には黒ずんだクマ。頬はひどく窪んでいた。でも、その表情は、至福に満ち溢れたものだった。
 しかし、三日後。健太くんは行方不明になる。学校の下校中に忽然と姿を消したのだ。
 それだけじゃない。他のクラスでも行方不明の生徒がいるし、この町に住む人々も行方不明になっている。
 警察が色々と調べているが、まだ不明者は見つからないし、原因も分かっていない。町中では『神隠し』の仕業ではないか? と噂が立っているが、わたしはそんなの信じていない。『神隠し』だなんてそんな奇妙な現象、本当にあるわけがないじゃない。

 職員室でプリントの整理をしながら、健太くんの事を考えていた。『幸せなんだ』と言っていた健太くん。急に痩せ細ってしまって心配をしていたのに、理由を聞く前に行方不明になってしまった。彼はどちらかというと、『幸せ』ではない家庭の中にいたと思う。たまたま手首のところに青いアザが見えた。理由を訊ねると、『新しいパパが傷つけたの』と顔を歪ませながら呟いた。彼の家は健太くんが小さい時に父親が亡くなり、母親は半年ぐらい前に再婚をしたはずだ。
 だから、あの言葉と、あの幸せそうな笑みは、偽りなのか。それとも、父親からの暴力がなくなり、本当に幸せだったのか。わたしがもっと早く彼の状況に気づいていれば、健太くんは行方不明にならずに済んだのかもしれない。

 はあ、とため息を吐き、額に手を当てた瞬間、ポケットの中のスマホが震えた。手に取って画面を見ると、姉からのLINEが来ている。長い間引きこもりの姉からの。
【友香、久しぶり。元気にしてる? 私は今とっても幸せなの】
 文末には笑い顔のスタンプ。こんなに元気なLINEは珍しい。流産を繰り返してから、ずっと家に引きこもっていたから。
【わたしも元気だよ。姉ちゃん元気になったんだね。今家にいるの?】
 すぐに既読がつく。
【ううん。この家にいると幸せになれるの。友香も来てよ。あなたもすぐに幸せになれるわ】
 ——『幸せ』。
 健太くんの言葉。同時に、あの幸せそうな微笑みも思いだす。姉の文面からも、同じ笑みが滲み出ているように感じる。
 膨れ上がる違和感。姉は三回もの流産を繰り返し、ひどく悲観的になり、家に引きこもるようになったのだ。表情も暗くなってすっかり痩せこけ、旦那さんは姉が回復するのを諦めかけていた。

 しかし、この変わりようはなんだ?
 幸せになれる家とは?
 私は止まっていた指を動かし、戸惑いながらも返信をする。
【どういう事? 今どこの家にいるの?】
 またすぐに返信がくる。
【ここよ】の文面と一緒に、住所のようなものが送付されてくる。どうやら、姉が今いる家の住所のようだ。
 わたしは手早く仕事を終え、その家に向かう為に学校を後にした。

 *

「あれ、おかしいなぁ……」
 スマホを見ながら、わたしは立ち止まる。
 姉が送ってきた住所を地図アプリに打ち込んだはいいが、その家が表示されない。ピンの位置は、仕切られた四角と四角の隙間を示している。おかしい。新しい家だろうか。だいたいの場所は分かったけれど……ここに姉がいるはずだ。とりあえず、行ってみよう。
 わたしは、異様に楽しそうな文面を思いだしながら、足早に歩きだした。

「こんなところに、こんな家あったっけ?」
 ピンがおかしな位置を示しているが、その場所に家は存在していた。ただ、地図に載っていないだけなのか。その理由はよく分からないけれど。
 灰色の塀に囲まれた家。間口は狭く、縦に細長い形をした家だった。壁は白く、窓の少ない今時のデザインの家のように見える。外観からして、そんなに古い家ではなさそうだ。表札はない。塀に黒いインターフォンがある。その上に指先を近づけようとして、すぐにピタリと止める。
 指先が震える。それだけじゃなく、心がザワザワと騒つくのを感じる。もう一度顔を上げ、細長い家を眺める。ここだけ、異様に空気が重いように感じる。どんよりとした真っ黒な雲が、家を丸ごと覆い隠しているような。そんな陰鬱な雰囲気が漂っている。
 入りたくない、と心が叫ぶ。でも、中には姉がいる。早く連れ戻してしまえばいい。なるべくなら、この場所に長居はしたくない。
 わたしはスウと深呼吸を一回する。はやる気持ちを抱え、震える指先でインターフォンを押した。

 ピンポーン……

 応答はない。どうしよう……もう一度押そうか? と戸惑っていると、『はーい』と女の人の声が聞こえてきた。
「あの、山﨑友香という者ですが……姉のあやかが……」
『と、友香?』
 姉の声だった。やっぱり、この家だ。
「姉ちゃんよね?」
『うん、そうよ。あはっ、友香来てくれたのね。早く、入ってきて。今すぐ開けるから』
 楽しそうな声が聞こえると、ガチャリと塀の向こうで音が響いた。玄関の扉の鍵が開いたらしい。
 塀の入り口を越えて、敷地に入る。次の瞬間、全身が湿り気を浴びたように濡れた。ぬるぬるしたモノが、皮膚の表面に纏わりついていくのを感じる。
 何かに導かれるように扉に腕を伸ばす。忙しなく鳴りひびく心音を感じながら、わたしは地図にない家の扉を開け放った——。

 扉を開けると、目の前には長い廊下が伸びている。昼間だというのに陽光が入らないからなのか、異様に薄暗い。廊下の先は、闇に沈んでいて見えない。鍵を開けた姉はもう近くにはおらず、どこかへと行ってしまったようだ。
「姉ちゃん?」名前を呼んで、足を踏みだす。
 ギシシシッと床板が軋んだ。掃除をしていないのか、全体が埃っぽいし、埃の塊が隅の方で繭のように丸まっていた。
 薄明かりだけを頼りに、わたしは腕を前に伸ばしながら歩く。扉がいくつかある。一番奥の部屋の扉が、ほんの少しだけ開いている。

「かわいいね、かわいいね」
 楽しげな姉の声が、その隙間から聞こえる。最近のものとは思えない程、弾んだ声をしている。わたしは一歩ずつ、その部屋へと歩みをよせる。
「大好きよ、大好き」
 白い明かりが隙間から漏れている。喉がカラカラに乾いていた。冷たい雫がこめかみを流れおちる。重くのしかかる空気。姉の幸せそうな声とは正反対の、澱んだ空気がこの場所には漂っているように感じる。これは一体、何だろうか。
 早く帰りたい。いやな匂いがした。生肉が腐ったような匂い。足を踏みだす。ぐにゅ、と何かを踏んだ感触がした。足元に目を凝らす。
 褐色のもみじのようなものが見える。それに繋がった棒状の塊を踏んだようだ。のっそりと退けると、黒い虫のような生き物が数匹飛びたった。扉からの明かりが、山のような黒い塊を照らしだす。背中を丸めて両手を前に突き出し、床に伏せているような形状。

「きゃあぁぁぁ!!」
 わたしは鼻をつまみ、思わず叫んだ。
 死体だった。小さな子供のように見える。
 折り畳まれた足と伸ばした手は、木の枝のように細く、干からびている。グチュグチュした皮膚の部分からは体液が染みだし、床板を黒く変色させている。白い蛆虫は患部に群がり、黒い蠅が周りをグルグルと飛び回っていた。
 ひどい腐敗臭が鼻をつく。胃液が喉元まで、せり上がってくる。子供の死体は顔を伏せているが、見覚えある青い服で誰なのか予想できた。健太くんだ。行方不明時の服装だった。
 よく見ると頭の丸みや、髪の色も健太くんのものと似ている。なぜ、彼がこの家に。
「健太くん、どうして……」
 なぜ、ここで死んでしまったのか。

「友香なの? こっちに早く来てよ」
 催促をする姉の声が、漏れ聞こえる。わたしは変わり果てた健太くんを通りすぎ、半開きの扉へと向かう。こみ上げてくる感情を、グッと呑みこむ。そして、扉の隙間から部屋へ足を踏みこんだ。
 散らかった部屋の真ん中に、姉が立っている。倒れた椅子。散らばった服や紙。降り積もった埃や、転がるゴミ屑。ズタボロに切り裂かれたカーテン。廃屋のような部屋だった。

「友香、見て見て。かわいいでしょう」
 骸骨のような顔が、こちらを振り向く。ひどく痩せこけた顔。黒ずんだクマ。埃が積もった乱れた黒髪。
「かわいいでしょう。私の赤ちゃん」
 ドロリとしたレバー状の塊を抱きしめる姉。腐った肉団子のような頭を、愛しそうに撫で撫でする。頬ずりをすると、ボロボロと皮膚片が剥がれ落ち、よりリアルな赤茶色の組織が顔を出す。白い骨のようなものも見える。
「ね、姉ちゃん。な、何言ってるの? そ、それは、赤ちゃんじゃないよ……それは赤ちゃんの遺体だよ。死体。流産した赤ちゃんだよ」
「友香、何言ってるの? そんなわけないじゃない! こんなにかわいいのに。大好きよ」
 姉はそう言うと、朽ち果てた肉の塊にキスをする。蛆虫のような生き物が、姉の唇を這って頬の辺りまでやって来る。姉はそれを指先でブチュと潰すと、床に放りなげる。姉の下。そこには二つの茶褐色の塊が重なっていた。きっと流産した赤ちゃんだ。腐って潰れたハンバーグのようだった。蠅がたくさんたかっている。

 わたしには腐敗した赤ちゃんの遺体にしか見えないが、姉にはかわいい赤ちゃんに見えるらしい。決して手にできなかった幸せ。それが、この家には存在している。だから、姉は引きこもりから抜けだし、この家に『幸せ』を求めてやって来ているのだ。きっと、健太くんもそうだったんだ。ここには亡くなった父親がいて、母親もいて。三人で幸せに過ごしていたに違いない。
「私の赤ちゃん、かわいいねぇ」
 崩れ朽ちていく遺体を抱きしめる姉。その顔は来た時よりもひどく落ち窪み、老婆のようだった。健太くんが急に痩せたのは、この幸せになれる家に来てからだったんだ。この家は幸せにしてくれる。しかし、生を吸い取っていく。そうして、最期には魂まで——。

「姉ちゃん、ダメ! その子はあなたの赤ちゃんじゃない! だって、赤ちゃんは死んじゃったじゃない。これは幻想よ。幸せな幻想。そんなモノに囚われちゃダメ! 現実を見て!」
 姉の両肩を掴んで揺らす。肉の塊を大事そうに抱きしめ、至福の笑みを浮かべる姉は、わたしの言葉など聞いていない。
 このままだと姉まで、死んでしまう。それは絶対にダメだ。わたしはその醜いモノを姉から引き剥がそうとする。
「友香、やめて!」
「ダメよ! それを手放すの!」
「いやよ! やっと、私の赤ちゃんが手に入ったのに……私から幸せを奪わないで!」
 姉は泣き叫び、体を勢いよくひねる。姉の腕から、褐色の肉ボールが飛びあがる。ビシャリと壁に叩きつけられ、床へと落下する。赤ちゃんは、潰れて平たくなった肝臓のようになる。ひどい腐臭が立ち昇る。壁には赤茶色の筋がいくつも付着している。
「いやあぁぁぁーー!! わ、私の赤ちゃんがあぁ!!」
 姉は膝立ちになり、顔を覆い尽くす。
「アレは赤ちゃんじゃない。早く、帰ろう!」
 わたしは姉の腕を取ろうとする。その時、背後に気配を感じた。

『友香』
 この声。この優しい声は。
『友香、会いたかった』
 うそ、まさか、どうして。
 だって、この声は——。
『友香、こっちを向いて』

 わたしはゆっくりと振り返る。
 優しい瞳がこちらを見ている。柔らかな焦茶色の髪。筋の通った鼻。逞しい体躯。
 熱い涙が頬をすべり落ちる。鼓動が深く高く脈打っていく。
「蒼人……」
 そこには、亡くなった恋人——蒼人が立っていた。一年前に事故で亡くなったはずなのに。
『友香、会いたかった』
 窓から差し込む微かな光が、大好きだった彼の輪郭を鮮明に縁取っていく。
「わ、わたしも、会いたかった……」
 こみ上げてくる感情で、足が震える。大好きだった気持ちが蘇る。幸せだった時間、記憶が、身体中を駆け巡る。
『友香、おいで』と、蒼人は逞しい腕を広げる。わたしは躊躇いもなく、その腕の中に飛びこんだ。

 あたたかい。陽だまりのようなぬくもりは、あの頃と変わらない。大好きだった匂い。それを目一杯吸いこんで、彼の胸に顔を埋める。わたしは泣き喚いた。
「蒼人……大好き」
『僕も大好きだよ』
 至福にまるっと包まれる。やっぱり、わたしにとって、これが一番の幸せ——。
 鼻の奥に入ってくる腐敗臭。ベタついた感触。霜のように降りてくる澱が、体に貼り付いてくる。耳元でうじゃうじゃと蠢く蛆虫。

「きゃあぁぁぁ!!」
 わたしは蒼人をつき飛ばした。ふらついた蒼人は、扉にグチャリと体をぶつける。
『友香、どうしたの?』
 こちらを悲しげに見つめる彼の顔。その半分はぐちゃぐちゃに潰れ、半透明の体液と、赤茶色の血液が溢れて垂れおちる。
 ダメだ……これは蒼人じゃない。幻想だ。だって、蒼人は亡くなったんだもの。この世にはもういない。
 会いたいって、何度も願った。また抱きしめて欲しいとも。でも、でも——。
「蒼人、ごめん。さようなら……」

 わたしは泣き暮れる姉の手を取り、蒼人を横切って、この家を飛びだした。彼は悲しげな瞳でわたしを見ていた。大好きだった深いアンバー色の瞳で。
 わたしは家を振り返ることなく、暴れる姉を引きずりながら町中を駆けだした。
 涙まみれの顔だった。胸が痛くて、悲しくて、どうしようもなくて。悲しみの澱みの中を、わたしは走っているようだった。

 *

 あの細長い家のその後。行方不明者の遺体がいくつか発見されたが、顔が分かるものは『幸せ』に満ち溢れた笑みを浮かべていたという。

 姉はあの後頭がおかしくなって、毎日悲しみに明け暮れていたけれど。旦那さんが『僕があやかを支える』と言ってくれ、献身的に支えてくれるようだ。今回の事で彼に姉の悲しみが、ようやく伝わったみたいで良かった。

 わたしは蒼人の写真を眺めながら、ふうとため息を吐く。彼が死んで一年が経過し、自分の中では整理ができているつもりでいた。しかし、あの家で彼に会った時、まだ好きな気持ちはわたしの中にあって。彼の死を乗り越えられていない自分がいた。
 無理に忘れなくていい。
 少しずつでいい。少しずつでいいんだ。
 あの幸せな時間があったから、今の自分がこうやって生きている。

 大切な人の死に直面した人たち。その人たちは、どうしようもない悲しみを受けとめ、受け入れ、時間をかけてゆっくりと乗り越えていくんだ。姉もそう。そうやって、新たに訪れる幸せを願いながら、わたしも生きていく——。

 まず、一歩から。
 わたしは首からネックレスを外し、彼の写真の隣へと置いた。彼から貰ったネックレス。
 もう毎日身につけないようにしよう。
 そうやって、少しずつ——。
 鞄を肩にかけ、わたしは学校へと向かった。

 end

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