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104_『聖地サンティアゴへ、星の巡礼路を歩く』 / 戸谷美津子

巡礼という言葉には、どこか憧れを抱いてしまうのが人の常で、世界には様々な巡礼の形があることを何故だか知っているのも不思議なことで、巡礼というものが主に宗教と結び付いているからか、それ自体が生きることに近くて、遠いようで身近に感じる言葉。

個人として、巡礼を傍で感じる機会があったのは、イスラエルに訪れた時のことで、エルサレムはもちろんのこと、パレスチナにあるベツレヘムで大量の白人の団体を見かけた時は、その場所に潜む磁場をひしひしと感じてしまった。2000年以上前の出来事が時を超えてここまで人を動かすという紛れもない面前の事実。

あるいは、イスラム教徒であれば、生涯に一度の義務となっているメッカ巡礼。世界中のイスラム教徒がメッカを実際に訪れる割合がどれくらいなのかわからないけれど、決して高いとは思えないけれど、地球規模で巡礼が行われるという事実には驚愕すると同時に尊敬の念さえ抱いてしまう。アフリカで出会った多くの人はイスラム教徒であったけれど、彼らはハッジを叶えることはできるのだろうか。

また、チベット教徒の五体投地。両手両足、頭を地面に繰り返し投げ伏して、聖地に向かう行為。聖山カイラスを周回するように五体投地で回る。1000kmを越える距離を、五体投地で巡るというのは、修行を越えた凄みを感じる。更には4-5000mの高地でそれをやり遂げるのだから絶句。ちなみに、自分の場合は、その高度だと酸素が薄くて歩くのがやっとだった。

そもそも、巡礼とは。

それは、歩くこと、を内包している。

そして、歩くことは、誰にでも平等である、という事実が巡礼の最大の価値でもあると思う。それは身分や立場等は関係なく、誰にでも開かれている。場合によっては、その背景となる宗教でさえ不問。

スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路はその代表格かもしれない。キリスト教徒の巡礼路ではあるけれど、多くの人がその道を歩くことに惹きつけられているという事実。歩くという行為自体が、すべてを超越するというのはとても面白く、自分でもいつか歩いてみたいと思う道。

本書では、実際に40日をかけて、その800kmを踏破した記録。巡礼は一歩一歩の繰り返しなので、記録に関しては歩いては街へ辿り着き、食事をしてお酒を飲み、寝て起きるのリピート。ただ、少し引いた目で読むと、大きな道がまさに見えてくるというか、一冊の記録が大きな一歩にも思えてくる。

そこに多くの人がいて一緒に歩いているということ、あるいは自分が歩いた道を、かつて多くの人が歩き、そして将来多くの人が歩いているであろう情景。

巡礼には、そうやって、誰かと繋がることに確信をもたらしてくれる。そう考えると、すごく興奮してしまうし、想像するだけで楽しくなる。

いつになるのか、まだまだ遠い未来かもしれないけれど、いつかこの道を自分でも歩きたいと思う。


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