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分かりやすさ至上主義の時代だからこそ、「トゥース!」と叫んでみないか?

「トゥース!」と叫ばれても、正直意味もメッセージも何もかも理解できない。

「分かりやすさ」の脆弱性

最近しばしば思うのだが「分かりやすさ」という価値基準を妄信するのは危険すぎやしないか。

文章にしても、動画にしても、今や何事にも分かりやすさが求められている。つまり、理解できることこそが価値になっているということだ。

分かりやすさを追求するがあまり、読者や視聴者といったコンテンツの受け取り手が考えることを放棄してしまっているようにも感じてしまう。「こんな分かりにくい表現をするなんて馬鹿がやることだ」「作り手自身が分かってないから、こんなレベルの低い作品になるんだ」という罵りめいたコメントがSNSやyoutubeでは散見される。自分が理解できないという事実を棚に上げて。

あまりにも難解な語句や独特の言い回し等で分からないというのはさておき、「分かりやすさ」を求めるがあまりコンテンツの質を必要以上に下げすぎてしまうのはいかがなものだろう。結局、正義の味方はいつも勧善懲悪で構わないというのならそれまでだが。

「トゥース!」に意味はあるか?

さて、テレビを見ていてもいわゆる「ツッコミ」芸人の活躍がはなはだしい。それはきっと彼らのツッコミが物事を理解させる力を持っているからではないか。ボケの芸人が発する理解しがい、すなわち「分かりやすさ」を欠いた言動や行動を言語化することで笑いを取る。もちろん私もそんな言語化に腹を抱えて笑う人間だ。

ただ一方で、私が好きな芸人を挙げるとすれば、オードリー・春日さんになる。なぜそう思うのか。彼の「トゥース!」には分かりやすい・分かりにくいという次元を飛び越えた面白さが宿っているからだ。

「トゥース!」と叫ばれても、正直意味もメッセージも何もかも理解できない。そもそもこの叫びに意味やメッセージなんてないのだろう。事実、「トゥース!」は彼が高校時代アメリカンフットボール部で使っていた掛け声だったものをそのまま使っているだけだという。

でもとにかく面白いのである。そんな「トゥース」と叫ぶ彼の勇姿を見ていると、

「分かりやすい・分かりにくいなんて、クソくらえだな」

と思えてくる。

意味なんか無くてもいいじゃないか

私たちがいま「分かりやすさ」に囚われているのは、何事にも意味を求めようとするからなのかもしれない。せっかく見るなら、読むなら何か自分を成長させる糧がほしい。だからこそ、その糧を見つけられないときには、その怒りを作り手に投げつける。それは、たとえ自分の能力が足りないせいで見つけられないときであっても。

今まで私たちは「トゥース!」に意味を求めたことがあっただろうか?いやない。

だから、たまには「トゥース!」宜しく、意味なんかなくてもいいじゃないか。さぁ、何も考えずにただ叫ぼう。

トゥース!!!

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