「正解探し」をやめると、仕事はグッと気楽になる
駆け出しワーママのほたてです。
育休を経て、良くも悪くも仕事の癖がリセットされて復職し、改めてこういうところ大事だよねという気づきがあるなぁと思う今日この頃。
「仕事の心がけ」というテーマに乗っかって、心がけているというより、心がけたいなと思った学びを、自分なりにまとめてみたいと思います。
正解探しをし始めると、苦しくなる
私自身、よく「この仕事には正解がある」と思って業務に当たっていたことがあります。
というか、気を抜くと今でも思ってしまってることがあります。
上司から頼まれたこの仕事、上司の思う正解は何だろう
この業界の仕事、きっと他を見れば答えがあるはず
この仕事の進め方、調べれば正解でてくるかなぁ
ググレカス、も死語かなと思いますが、検索すれば何でも調べられる現代の病なのか。
いや、もちろんより良い手段がわかれば解決するのであれば調べるに越したことはない。
でも。
正解を探すことばかりに気がいって、時間だけが過ぎていって、終わらない仕事。
そして、後になってから、自分の頭で考えることを放棄していたことに気づくんです。
正解ではなく、最善を求めてみんな動いている
時と状況によりますが、大抵の仕事は、何が正解か(あえて正解と言いますが)も含めて、検討・遂行を期待されているんじゃないかなぁと思います。
答えが正確に決まっているのは数学とかぐらいじゃなかろうか。
学生時代、繰り返し問題を解いていい点数を取るタイプの勉強が好きだった(し、それで評価されてた)自分としては、すべて違わぬ答えがあると思ってしまっていたのかもしれません。
素人の意見だからかなり語弊があるかもしれませんが、医療ですら正解ではなくてその時その時の最善を尽くしてるに尽きるのではなかろうか。
そうでなかったら、残念ながら命が助からなかったら100%医者が悪いことになってしまう。
そう、正解じゃなくて最善。
大体、自分が正解だと思うものを相手に持っていっても、大抵「えっ、そっち?」ということだってよくあると思うんです。
正解探しよりも、相手にとっての最善はなんだろうと、話を聞き、発掘していくこと。
そっちの方がよっぽど大切だと思うんです。
誰かを育て伸ばす時も、正解が邪魔をすることもある
キャリアを積んでいくと、必然的に誰かに指導したり教育したり(あんま好きな表現ではないですが)する場面も増えてきます。
そうすると、どうしても自分の経験上、「正解」だと思ったことを軸に話してしまうことがあります。
そうするとどんな弊害があるか。
もしかしたら今回の「最善」は他にあるかもしれないのに、灯台下暗しに陥る
教育を受ける側も、それを前提に考えることになり、自由な発想の妨げになる
結果として、お客様に最適解としてのサービスを提供できず、教育を受ける側にとっても成長機会が失われる
うーん、いいことないなぁ。
でも、短絡的な結果だったり、目の前の仕事を「タスク」として捉えてしまうと、
とにかく終わらせてしまいたい!と思い、
すぐ終わる手段として、正解だと思うものを提示してしまうのかも。
「最善の発掘」だと思うことにした
ふと立ち止まって、自分が答え探しをしようとしてしまっていることに気づいた時。
それはもうドツボにハマっています。
だから、ちょっと言い換えてみる。
今、私は正解ではなくて、最善を発掘しようとしているのだと。
正解探しだと、与えられたものに対しておっかなびっくりこなすだけかもしれないけど、
最善の発掘であれば、私が見つけに行く。
言葉のあやでしかないけれど。
どうせ働くなら、ほんの少しだけでも、主体性のある働き方がしたい。
どうせ働くなら、ほんの少しだけでも、より良い可能性を見つけられる働き方がしたい。
そんな、ささやかな誓いなのでした。
この記事は「つぶやきワーママ日報」というマガジン内に掲載しています。
新米ワーママのほたてが、仕事の中で感じたことをつぶやくように書き残していますので、ご興味あれば、ぜひ覗きにきてください。
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