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Episode 753 「私を認める」が大事です。

以前からとても興味深いnote記事を書かれる Luさんの新作記事が、今回もまた興味深く、面白いです。

 真にうらやましいのは「勉強しなくてもできる人」よりも「勉強を『勉強』と思うことなく継続できる人」なのかもしれませんね。

note記事「勉強しなくてもできる」の落とし穴 より

このように結ぶ Luさんの記事は、幼い頃から「(優秀な) 記憶力」を頼りにして学ぶ姿勢を身に付けることができなかった私 (Luさん) と、コツコツと努力できるタイプだった妹さんを対比して、幼い頃から学ぶ姿勢を身に付ける大切さを説いているのだと思います。

私もどちらかと言うと、Luさんと同じように「記憶力」に頼って学習する姿勢が身に付かなかったタイプなのです。
Luさんがご自身の記事で書かれているように、「進学校」と呼ばれる高校に進んで授業について行けずに苦労するところまで、私も全く同じ路線を歩んできたのは間違いなく、成績上位を占める「コツコツタイプ」を羨んだような記憶は…私にもあります。

ただね、私は自らの過去を振り返って、子ども時代の自分自身が「コツコツタイプ」を獲得できたか…と問えば、それは恐らく無理だっただろうと思うのですよ。

私のnote記事では何度となく話題に出しているのですが、私には(極弱く診断されない程度に)ディスレクシアの傾向があり、読書が苦手だったのです。

今でこそ教育/学習に関する媒体は「紙に書かれた本」意外にもイロイロあるのですが、1970年生まれ…もう50歳代も半ばに掛かる私の子ども~青年時代である昭和期に、今なら選べるかも知れない「紙以外の媒体」はなかなか見当たらなかったのですよ。
Windows95 が発売されてパソコンが急速に家庭に普及し始めたのは、その名が示す通り1995年のこと…私が大学を卒業して社会人になったのが1993年ですからねぇ。
教科書や参考書をめくり、要点をまとめたノートを作り、演習問題で理解を深めるやり方が一般的な勉強法であったワケです。

私はその紙に書かれた文字/文章を読むことが苦手で、読むことに体力的にも精神的にも大きな負荷が掛かった…とした時に、その負荷を背負ってまで文字とにらめっこするには限界があったよね…なんて思うのですよ。

結果として、浅学非才な私がここにいるワケ。

でも、私は決して私の過去を振り返って「残念だ」とは思わないのですよ。
もちろんAS"D"的な「やらかし」エピソードは数多く、お恥ずかしい限りのイロイロは、このアカウントの「記事のネタ」となって散りばめられているのですけど。

必要、必然、ベストです。

その上司は、「問題を解決するには、そうなる必要があった、そうなるのが必然だった、そうなるのがベストだった…として、だから『どうするんだよ』と考えることが大切」と言ったのです。

note記事「必要、必然、ベストです。」より

私の過去、例えば今回 Luさんの記事から「そうそう、私もそうだった」という記事への共感から思った「コツコツではなかった私」という事実は、間違いなくありました。
では、「コツコツではなかった私」という事実は、どのようして作られたのでしょうねぇ。

「コツコツではなかった私」という事実は、私にとって必要だった、コツコツではないが故に、記憶力に頼るのは必然だった、その結果として浅学な私になるのは現象のベストな状態だったとして、私はどうするのか?

私の「コツコツではなかった理由」と、Luさんの「コツコツではなかった理由」は、恐らく違うけれど、コツコツやらなかったから同じ結果が導き出されたのだろう…と思うのですよ。

私はコツコツ型ではないからこそ、今の私があるのだと思いたいのです。
確かに高校では成績が振るわず、大学受験では難関と呼ばれる学校には全くもって届かなかったのですけれど、もしそこで有名大学に合格して、今と違う人生を送っていたならば、JTC (Japanese Traditional Company =伝統的な日本企業) などと揶揄される会社で、AS"D"的な不協和音で苦しんでいたかも知れません…知らんけど。

Luさんの記事を読んで引っかかった「僅かに感じた不安」の正体は、Luさんの意図とは別の、和風社会が持つ「コツコツ努力することへの信仰的な正義」という視点なのでしょう。
興味のあることへの関心と同列に学習があることで、「勉強する/努力する」が苦痛ではなく日常に溶け込むように…が Luさんが思うコツコツの核心なのだろうと理解しています。
そして、抜群な記憶力ゆえにそうできなかったというご自身の苦いエピソードがある。

同じようにコツコツできなかった私は、だからそうできなかった私を認める必要があると感じます。
コツコツが難しい、そういう性格/特性の人もいることを認めないと、コツコツできない人は「努力できない」と結び付けられてしまうかも知れません。

Luさんのハナシの最も重要な部分は「できなかった私を笑って認める」ところにあるのだと思います。
「そうできなかった私」のエピソードは、次世代へのメッセージになるのでしょう。
それを踏まえての次世代が「早期の学習法獲得」に失敗したとして、その失敗を許して「それじゃぁ、どうするか?」と考えられるようにあって欲しい…と。
Luさんの記事を読んで、私はそんなことを思ったのです。

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