Episode 719 体験談は重要です。
私は読書が苦手です。
診断はされていないのですが、私にはごく軽度の識字障害があるだろう…と自己理解しています。
「逐次読み」…読字障害としてのディスレクシアのひとつで、文字をひとつずつ拾って音に変換してしまうために、固まりとしての単語の意味に変換することが難しい現象です。
読字障害としてのディスレクシアには幾つかのタイプがあるのですが、私は完全表音文字である「ひらがな/カタカナ」が苦手で、象形文字の流れを汲む漢字が混ざる日本語のスタイルだからこそ何とか文字が読めているのだと思います。
コレが英語のようなアルファベットの組み合わせで意味を成す表音文字のみを使う表記方法なら、私は文字読みで相当苦労していたことでしょう。
実際に中高の英語学習では、単語が読めなくて苦労したワケでして…。
(※英語の文字表記を単純に表音文字と扱うか…と言う問題はあるのですが、「アルファベットの組み合わせ表記による意味理解の困難さ」というニュアンスで、表音文字として扱います。)
私の思う日本語表記は基本的に漢字(や外来語としてのカタカナ語)が中心で、それを「てにをは」というひらがなで漢字(言葉)同士を繋ぐイメージです。
ただ私の場合、この「てにをは」という助詞が「ポン!」弾けて動きになってくれなくて、音のまま固まるのです。
私が、私は、私を、私に…私を「どうするのか」に繋がるひらがなが音のまま記号として残り、私の「動き」を止めてしまう…そんな感じです。
コレか話し言葉なら、「てにをは」はスルリと動くのに…文字になると引っかかってしまうのです。
小学生時代から年を追うごとに文章中の漢字が増え、意味のメインである部分のひらがな率は言うほど高くありません。
それでも、文章の意味に動きを加える部分にひらがなは残り、それにパワーをかけて動きのある意味に変換するのには、労力が必要になるワケです。
世間一般で言う「文字の理解(≒識字)」…という意味では、私は何の問題もないのでしょう。
ただ、今でも読書には大きな負荷が掛かります。
だから、知識を得るために「読書」という選択は、なかなか自ら進んで取りたい方向にはないのですよ。
その一方で、世の中の「本」や「読書」への評価は、今でも高いものがあるように思います。
それは、私の子ども時代とあまり変わっていないのではないか…と。
今の時代、知識を得るためのメディアは本以外にも多く存在するようになりました。
スマホで簡単に、何でもすぐ検索できるようになり、しかもそれは文字情報とも限らないワケで、わざわざ本に頼らなくても良くなったのは事実です。
それにもかかわらず、スマホは「弄る」と見られ、動画を見てサボっていると思われるワケですよ。
読書が知識を得るために大きな手助けになることは、恐らく間違いないのです。
でも、読書が苦手な人はいて、苦手ゆえに読書に頼らない知識の習得法のライフハックは、存在して然るべきなのだと思うのです。
そんなハナシをよく耳にするのです。
そしてこのハナシに違和感がなければ、「本が良いもの」という共通の価値観を「普通」とするユニバーサリティ(普遍性)の中にいる可能性がありそう。
もちろん「本が大好き」で、興味関心や知識の拡大という自己投資の方向に読書がある人であれば、本好きも本の購入も何の問題もありません。
でも、このハナシは、個人のやり方というダイバーシティ(多様性)の結果として本を選ぶであって、「そもそも本は良いものなのだ」というユニバーサリティ(普遍性)の結果として本を選んだワケではないのですよね。
本好きな方が本を選ぶのと同じように、本が苦手な私は本を選ばない…は、同じダイバーシティのハナシであって、本を選ばない私が非難されるのであれば、社会(または個人)のユニバーサリティ(普遍性)への固着になるワケです…理論的にはね。
そんなハナシを土曜日(11/25)の夜にしていたのです。
覚えたてのダイバーシティの対義語としてのユニバーサリティ(普遍性)を、自分の体験談に落とし込むことで、実感としてユニバーサリティとダイバーシティを理解したかった…というのが今回のハナシ。
そして分かったのが、ダイバーシティの理解には、ユニバーサリティとの対比が不可欠なのだ…ということ。
体験に結びつけることで、理解は大きく深まるのだと、改めて思ったのです。
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