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Episode 646 必要、必然、ベストです。

私は社会人になってから一回だけ転職しているのです。
今勤務している中堅食品メーカーに入社したのは1999年のこと、その前は大手量販系の会社でマネジャー職をしていました。
退職に至る経緯は過去記事たくさん出てくるのですが、当時の様子が分かる記事をひとつだけ貼っておきましょうか。
振り返ってみれば、ASDのコミュニケーションの苦手さが大きく影を落としていたと分かるのですが、当時の私には、それが理解できなかったのでしょう。

退職した会社でのことは、良いも悪いもイロイロとあったのですが、「何かひとつ」と言うのならば、私が新任マネジャーとして栄転するタイミングの上司の言葉でしょうかね。

必要、必然、ベストです。

その上司は、「問題を解決するには、そうなる必要があった、そうなるのが必然だった、そうなるのがベストだった…として、だから『どうするんだよ』と考えることが大切」と言ったのです。

これ、簡単に言えば「正確に現状分析を行いなさい」ということなのですが、更にもう一歩踏み込んで、その現状分析に「自分の感情を挟むな」が付け加えられれるワケです。
「ベストです」という言葉には、どんなに悪い状況でも、必要で必然の結果である現実を受け入れろという強い「ダメ押し」感があって、「そこからの反転攻勢に移るに当り、正確な分析の結果を糧にしなさい、感情に流されて甘く見積もるな」…ということを、この短い言葉に込めたのだと、私は思います。

私は前回の記事で、社会が進化する上での時代の流れというのは、多くの人の便利が共有されることで進んでいく…と指摘しました。
故に、どんなに正しいことでも時流に合わないことをすれば、社会に歪みを作り淘汰されるのだと、私は考えています。

前回の記事でも話題にしたツイートを再掲しますが…

発達障害についての「医療モデル」という考え方は、ザックリと言えば「障害という現象を、疾病、外傷、もしくはその他の健康状態により直接生じた「個人的な」問題としてとらえ、専門職による個別治療といったかたちでの医療を必要とするものとみる」という考え方です。
その一方で「社会モデル」という考え方は「障害という現象を、社会によって作られた問題とみなし、主として障害を持つ人の社会への完全な統合の問題として見る」という考え方です。
何れにしても「障害がある」という判断には、社会を構成する主体であるマジョリティとの違いという線引きがあって成立するのだと思います。

医学モデルと社会モデルより(※参考資料を参照)

ツイートにも書いた通り、現実社会において(発達)障害とは、社会に適応できない個人の問題とされるケースがまだ多いのだと思います。
教育の現場や療育についても、社会生活を送ることをひとつポイントにしていることが多い…ということは、「医療モデル」がベースになる考え方に近いからでしょう。
前回「人権モデル」と私が書いた部分は、図中の「ICFモデル」ということです。
そして「医療モデル」と「社会モデル」は図で示された通り並立する対極の考え方であるワケです。
でも、私は「人権モデル」を目指す過程で「社会モデル」は経由する概念として重要だと指摘したのです。
なぜ、並立する考え方なのに経由する必要があるのか…と問えば、社会の多数派が「社会モデル」を上手く理解できていないからです。
「人権モデル」を実現するためには、「医療モデル」と「社会モデル」の長所と短所を正確に理解し、その両方の利点を持ち合わせることを考えなければならない…と私は思うのです。

社会の多数派から見て、社会生活上の不具合を「障害」と呼ぶ…これは間違いない事実だと思います。
「医療モデル」は、その障害の原因を「個人に発生した異常」とすることで成立していますから、マジョリティには比較的都合がよいのですよ。
その一方で「社会モデル」は、発生する不具合を社会側の仕組みの問題と捉えるワケですから、改善にはマジョリティ側にも努力が必要になるワケですよね。

冒頭の「上司の言葉」に戻ります。
必要、必然、ベストです。
医療モデルのみの対応にはどうしても限界がある…医療を拒み(必要としないだけの社会的地位があるを含む)、または医療の枠外と判断されることで支援の対象から外れる当事者がいる現状を、必要で必然でベストだとして受け入れた時に、目指すべき「人権モデル」に向かって何が足りないのかを考えることになるワケです。
「人権モデル」を構築するベースになるのは「医療モデル」と「社会モデル」の両立です。
なぜ「社会モデル」が経由する概念として重要なのか、それは「社会モデル」に求められるマジョリティ側の長所と短所を、ある程度マジョリティの一般層が理解することが大事だからだと感じます。
「人権モデル」は「医療モデル」と「社会モデル」両方の利点を持ち合わせることを目指す…裏を返せば、「社会モデル」におけるマジョリティ側の短所である努力を軽減させることにつながる発想です。

社会は多数派に都合よくできてるのです。
その多数派の譲歩を引き出す発想には、負担を如何に減らすかという改善が重要です。
声高に「人権モデル」を提唱してマジョリティの負担を増やすより、「医療モデル」の対極にある「社会モデル」の概念を正確に伝えて、「それよりもこっちの方が良いでしょ?」を引き出すことは出来ないか…と考えます。

「人権モデル」を提唱した方は、「医療モデル」と「社会モデル」を良く知り、その利点と欠点の検討の中から「人権モデル」を模索したハズです。
全く同じことをやる必要はありませんが、この思考の流れを大多数の一般民も追経験する必要があるのだと、私は思っているのです。


※参考資料 医学モデルと社会モデル
plaza.umin.ac.jp/~haruna/icf/med_vs_soc.html

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