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Episode 645 モノには順序があるのです。

私が中学生だった頃は、世界は東西冷戦の真っ只中でした。
1970年生まれの私が中学生だったのは、1983~1985年のことです。
1980年に開催されたモスクワオリンピックは、開催国・ソ連のアフガニスタン侵攻をキッカケとして西側諸国の参加ボイコットに至り、その次の大会である1984年のロサンゼルスオリンピックは、逆に東側諸国がボイコットする…という時代だったワケです。

冷戦の終結は、「ベンリンの壁」崩壊という衝撃的な出来事があった1989年のこと…ここを境にして、いわゆる「共産主義」を掲げた東側諸国は、大きく方向転換することになるワケです。

東側諸国の掲げた「共産主義」の失敗は、資本主義を成熟させることなく「全てを平等に分け与える」という理想的な共産化を目指したことにある…と、私は思っています。
その詳しい理由については、note記事「蟹工船の上なのです。」をご覧頂くとして。

私は(学校)教育で言うところの「平等」に、この上手くいかなかった東側諸国の理想的な「平等」と同じ匂いを感じるのです。

このツイートは以下のように続きます。

「私の我慢」の上に道徳という社会の安定が存在した場合、みな平等に「私の我慢」を要求されることがあるワケですよね。 
ここに「配慮」を求めると「不公平」という意見が出る素地があるワケです。
 社会権力側が道徳を握ることの弊害は、道徳を盾に人権を侵害することを容認することにあると感じます。

私が中学生の頃の社会科「地理」の授業で、ソ連の集団農場「ソフホーズ(совхо́з)/コルホーズ(колхоз)」という仕組みの理解は、当時の共産主義を知る上で必須の項目でした。
どちらかと言えばコルホーズ(колхоз)の方が「ある程度の私権」を認める(移行用の)緩い制度だったのですが、何れにしても国有地を共同で耕作して利益を平等に分配する共産主義の理想を掲げる制度だったワケです。
ただ、この制度には大きな弱点がありました。
基本的に「個人の能力差」の考慮がなかった…ということ。
どんなに頑張っても、どんなにサボっても、分け前が同じ…で、作業者のモチベーションが上がるかと問えば、首を傾げざるを得ません。

このことは、東欧で共産主義を掲げた国で共通の問題でした。
同じ民族での分断を経験したドイツは、東西統一でそれを現実問題として見ることになるワケです。
余談ですが…古橋一浩氏の人気マンガ「SPY×FAMILY」は架空の国のハナシですが、そこココにドイツの東西分断を感じる作りなのは私の思い違いとは思えません。

脱線してしまいましたね…。
ところでそのドイツ繋がりで…「トラバント(Trabant)」というクルマをご存知ですか?
1958年から1991年まで、ほぼモデルチェンジなしで製造され続けた旧東ドイツ製の小型乗用車です。

Wikipedia 「トラバント」より

ベルリンの壁崩壊の直後からは、最新式のフォルクスワーゲン・ゴルフやオペル・アストラなどの西ドイツ製の車と、古色蒼然としたトラバントが、同じ通りで肩を並べて走るようになり、双方のドライバーとそれらを見比べた者に強烈なカルチャーショックを与えた。
それまで移動の自由を束縛されていた東側諸国の人々が、トラバントに乗って国境検問所を続々と越える光景は、東欧における共産主義体制終焉の一つの象徴的シーンともなった。

Wikipedia「トラバント」より

このクルマが旧態依然で成長することなく時代に取り残される現象は、競争原理の不備に大きな原因があります。
全てを平等に…という理想は、立場の弱い人にはプラスに働いても、立場の強い人にはマイナスに働く可能性があるワケです。
社会を引っ張る成長勢力の成長力を助長する…「ソフホーズ(совхо́з)/コルホーズ(колхоз)」のように、平等という建前の元で、成長勢力を過小評価することになるということです。
つまり、東欧諸国の失敗は、能力の違いを認めないことで発生してしまう「不公平」を、主権者側が推し進める構造的な欠陥が主因だということ。
この構造は、日本の学校教育の「平等に」を盾にして個人の能力差を認めないことによって生じる現象に、よく似ています。

さてさて、冒頭の東西冷戦のハナシに戻ります。
東欧諸国は本来経験しなければならない「資本主義の成熟と限界」を経験することなく共産化に踏み切った…それが「社会主義革命」です。
それが私たちの知る「共産主義」なのですが、これは経済思想家の提唱した本当の意味としての共産化とは、全く別次元のハナシです。
そして社会主義革命による共産主義は、結果的に失敗したワケです…理由は説明した通り。

ここ最近の「ニューロダイバーシティ」という用語についての動きで気になるのは、この言葉が理解されないまま建前が設計されることです。

村中先生(@naoto_muranaka) の思う懸念とは、つまりこう言うことだと思うのですよ。
どんなに理論的に正しくて理に適ったことであっても、社会(国民/世相)の理解が得られなければ、行政や体制側が施策を押し進めても、施策は舵を失い暗礁に乗り上げることになる。

歴史から学ぶことは、たくさんあると思います。
政治/経済学的歴史で「封建制度」→「貨幣経済」→「資本主義」と進む背景を冷静に振り返った時、そこにあったのは時代背景の合わせた必然なのだと思います。
障害に於ける「概念モデル」は、決して対立する概念なのだと私は思っていません。
医療モデルから始まり、社会モデルを経て人権モデルに至る過程は、経済史を紐解くことで「その理由」が見えてくるのではないか…と考えます。

一足飛びに「ニューロダイバーシティ」という用語に飛びつくことがないように…と切に願います。
理想と言葉だけが先行すれば、東欧諸国の社会主義の「二の轍を踏む」可能性があるのだと、私は思っているのです。

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