見出し画像

Episode 630 外向き「内モード」があるのです。

ASDと定型のパートナーシップで、ASD当事者が結婚してから豹変する…みたいなことを耳にすることがあります。
このパタンの多くは、ASDの「内モード/外モード」のハナシとして語られることが多いのです。
標準的と思われる社会性を盾にして、対外的な姿を作ることを「外モード」と言い、その外モードの「お面」を外した素顔を「内モード」と表現する…この現象この言葉を否定する気はありません。
家庭というホッとできる場面で、作り物の外ヅラを外した素顔は、よく出来た外の顔とのギャップが大きくて混乱するワケです。

でも、ASD当事者の私が感じるのは、ASDの豹変が事実であったとしても、今ひとつ「内モードとは何か?」という問いの核心部分が釈然としなくてモヤモヤするのです。

「外モード」については、私自身が「外向きの顔」を意識して作っている部分ですからね、何となく分かるのです。
ASDの私でなくても、多かれ少なかれ「外ズラ」はあるでしょう?
全く以って裏表のない人がいるとすれば、それは余程の聖人か世間知らずか…などと思ってしまう私は心汚れていますかね。

そんなハナシはさて置き…。
問題の「内モード」のイメージって、どんなのですが?
「外モード」でイメージするものは、大体にしてハズレはないと思うのですよ。
「社会的価値観」と言う多くの人が納得できる枠の中で作られるモノですから、外モードという「お面」の見かけは、バラツキがあったとしても社会一般から見て「普通」の範疇として処理できるだろうと思うのです。
その一方で「内モード」とは?

先日からお話ししている「索引(index)」の作成という「過去記事のカテゴリ分け」の作業で、過去の私と向き合うことが多くなっている私です。

今回の私も、その過去記事から思う「内モードとは?」という疑問です。

今から20年ほど前…この「出せないことも善し悪しです。」のころの私は、適性があるとは言えない外回りの営業をしていたころで、自分の得意である数字を用いた商品管理などの分野から大きく離れた部署で仕事をしていました。
得意ではない営業の仕事にのめり込むことも出来ず、「なんちゃって営業」でお茶を濁しながらパートナーの手の上でいいお父さんをしていたころです。

ところが、事態が一変する出来事が発生するのです…転勤です。
苦手な営業から、数字を使った得意な管理業務に異動して、仕事にのめり込むのに時間を掛からなかったのです。

俄然やる気な私…ASD気質丸出しの過集中で仕事に没頭すれば、家庭が疎かになるのは当然の成り行きだったワケです。

さてさて、このふたつの事例を並べて、私の家庭での姿はどちらも仕事に向かう「外モード」とは違う家庭の顔です。
でも、その中身はガラリと違うワケです。
そして、このふたつの顔で決定的に違うのは、のめり込む過集中の有無です。

「内モード」というと、「外モード」で疲れてしまった反動…という、外に対しての内という対比の構造が浮かんできそうですが、果たしてそうなのか、極めて怪しいと私は思うのです。

「内モード」は、対外的な「仕事」などの社会的活動以外でも起こり得ると、私は思うのです。
何故ならば、貼り付けた記事「ロックオンしてしまうのです。」のように、必要に迫られて手に入れた中古のマイカーに「過集中」した結果、それ以外の存在が消えていき、自己完結思考に陥る…を私は経験しているのです。

つまりですね、「内モード」とは、ASDの興味が特定の場所に集中してしまう結果、あなたと私の関係性が薄れて消えていく「対人関係」の弱さ故の特徴が原因の「自己完結思考の一形態」なのだろう…ということです。

過集中出来るものは、基本的に私自身がイニシアチブを握っているワケです。
「自分の意思を折り曲げられない(調整できない)」ことが自閉の本質だということは、ずっとお話ししている通りです。
この「自分の意思を折り曲げずにいる」ためには、私が物ごとの主導権を握っている必要があるのです。
その主導権を握っているモノの興味が優先されてしまうと、あなたとの関係が薄れて優先順位がさがってしまう…ではないか。

「内モード」としてモラハラやDVを訴える人もいるのだと思います。
でもそれは「内モード」の必要条件ではないのだと考えます。

私が主導権を握っているものが優先された結果として、あなたとの意見調整は「私の優先」を妨害する面倒くさいものとなってしまう…。
結果として、自分の意見を聞いてもらえないあなたは「私が豹変したと捉え」て、その行動を指摘する…。
これに対するASDの私の、自分の行動の正当化がモラハラやDVの方向に向かうとすれば、モラハラやDVは内モードの二次的な現象として説明できるように思います。

あなたと付き合っていた頃の私は、あなたに対して外モードがあった…それは多分、事実です。
それが外された日常に入ることで内モードが発生する…ワケではないのだと思います。
外モードから外れても、私のあなたに対する気持ちは変わりません。

外モードの対象であるあなたも、対象から外れたあなたも、どちらも大切なあなたであることは変わりません。
問題は、結果としてあなたの優先順位が下がるように見える興味関心が私にできてしまうこと。
興味に集中することであなたとの調整で生活する基盤となる「意思の確認」が疎かになり、お互いの合意よりも私の都合が優先されることで、あなたに疎外感を与えてしまうこと。

もしも結婚前、付き合っているころの「外モード時代」に、あなたが私に対して疎外感を感じたとしたら、内モードと認識せずに「私に興味はないのね」と思うのではないか?
そこにはあなた側の「パートナーとしての期待」があるように思うのです。

私が思うにASDの「内モード」とは、ASD的な過集中によって周辺との調整能力が失われて自己完結思考に陥ることで、外ズラの仮面があろうとなかろうと同じように発生するモノのなだろうということ。
それを「パートナーとしての期待」という視点で見たときに、親密な関係になる前と後で、定型側が受け取るギャップが発生することで「興味がない」から「豹変」へと映るスタイルを変えるのだろうということ。

モラハラ的な「強権的または横暴な」上司は、ASD外モードの過集中自己完結思考(外モード対応の内モード)である…とすれば納得です。
それは私が散々経験してきたことですから。

過去の記事を読み返して思うのは、内にあるから内モードではなく、外にあっても内モードは発生し、内モードという言葉(通称)がこの原因をわかり難くしているのではないか…ということです。
このハナシに科学的根拠はありませんが、私の経験的に「これが正解」と思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?