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Episode 629 呪文の言葉があるのです。

今この記事を書くのに使っているweb媒体「note」、シンプルで自由度が高いので気に入っているのですが、ひとつだけ不便さを感じていることがあります。
それは「カテゴリ」が無いこと。

「カテゴリ」が無いのって、意外と不便なんですよ。
記事数が増えれば増えるほどに、カテゴリの恩恵を感じるのは、記事と記事との関連性をどのように表現して区分するか悩むことが多くなるからでして。

SNSを中心に広く普及している「#(ハッシュタグ)」は、読者主導の検索機能だと思うのです。
だから筆者は読者目線で「#」を付ける必要があるワケで、ブログのカテゴリのようにサイドガジェットに一覧表示されないから、特定の記事を筆者の視点でカテゴライズすることには向かないのですよ。

このカテゴリの不在を解決するために、過去記事を分類した記事を作成中なのです。
これをアカウントのトップにピン留めすることで、カテゴリの代わりをさせようとする魂胆です。

この「索引(index)」と名付けた記事を作成するにあたって、過去記事の見直し作業をしているワケなのですが、コレがなかなか良い勉強になってましてね、数年前に書いた記事を今読み返すことで、当時考えていたことと、それから進化した今の考えの差を目の当たりにすることになるのです。
この間も「コレは…」と思う記事が出てきたのです。

元データの日付は2018年1月8日になっていますから、今から4年半ほど前の記事です。
私がASDに無自覚だった頃の、パートナーと一緒に行動して「楽しかった」の意味が、パートナーとは違うことを扱った記事です。

この記事の中に書かれていることは、あなたと私は「一緒に楽しむ」の概念が異なることです。
あなたと遊びに出掛けて、景色に感動し、アトラクションや土地の旨いものを堪能して満足…の方向性が違うことを書いているのですが、何故あなたと私の「満足の方向性」が異なってしまうのか…という理由が記事に書かれていないのです。

私か遊びに出掛けた、その旅先のそれぞれの行動が「私が楽しい」に紐付けされることと、あなたが遊びに出掛けた、その旅先のそれぞれの行動が「あなたが楽しい」に紐付けされることは並列であり、あなたと私が共に楽しかったから「一緒に楽しんだ」になる…コレが「私の標準」なのに対して、あなたはそうではないらしい。
「一緒に行動する」と言う時間の共有の上に景色やアトラクションや旨いものというトッピングが一緒を引き立てる味付けになる…という表現で良いでしょうかね。
だから「共有する」という感触が得られないと、楽しさは半減することになるワケで、逆に旨いものが「期待はずれ」であっても、ふたりで顔を見合わせて「ハズレだったね」を共有することでOKだったりするのでしょう。

でも私はそうは行きません。
美味いものを食べに来たのですから、ハズレはハズレでしかないのです。
ここに「共有する」の認識な差が発生するワケですね。

前の記事は、そうやって認識がズレていても、時と場合によってはお互いの満足が得られることがある…と指摘しているのですが、今回お互いに満足できたことが、次回の満足に繋がる土台にはならないことも同時と意味してしまう、今読み返せば、なんとも不安定な指摘の記事だったと感じます。

パートナーは、さぞ戸惑ったことでしょう。
前回は「楽しさの共有」ができたのに、今回は全く上手く行かない…それは「私の標準」をパートナーは理解していなかったし、私は「私の標準」が普通だと思っている点に理解の接点がなかったからだと思います。

あなたの満足の前に、私の満足が必要

なんとも自分勝手なことを言っているように聞こえるでしょうけれど、自閉傾向の核心は「自分の気持ちのコントロールができない」であると私は考えています。
私が楽しいことが「あなたと楽しい」の前提になってしまうのなら、「あなたと楽しい」を作り出すために失敗は許されないことになってしまいます。
だからといって、あなたと「一緒に行動する」度に私の不満をぶつけているワケにはいきませんから、中身のない呪文「楽しかったね」を呟くことになるのです。

貼り付けた「ナチュラル故に気付きません。」という記事は、この「私の満足」と「あなたの満足」の先にある、あなたとの「楽しさの共有」の難しさを扱ったハナシ。

前の記事から今回の記事まで、4年半の歳月が流れて、やっとここまで理解したということです。
それが今の私の糧になっているかはわかりませんが、過去を振り返り過去を思い、今を思い直すことは、意外と重要かもしれません。


この記事を書くに当たり、今回もあずささんの記事にヒントを得ました。
私の思う呪文の言葉、私だけではなかったみたいです。

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