見出し画像

Episode 100 バラバラなのは当然です。

私はASDという発達障害を持って生まれました。
過敏/鈍麻という症状があり、特に聴覚と触覚に苦手があります。

私は生きていこうとする成長過程で苦手を意識的に避けて通り、苦手をカバーするために無意識に得意を育ててきたのだと思っています。
そう考えると、全ての辻褄が合う気がするのです。

生理的に受け付けないものは、小さな子どもなら必ず嫌がります。
我慢して受け入れることはまずありません。

生活する上では、どうしても周りとの係わりが出てきます。
先ず親と、家族と、親戚と、近所の幼なじみと…次第に係わる社会は大きくなり、その係わりの中で人は成長するのです。

五感全てにおいて飛びぬけた苦手がない場合、それぞれの感覚を上手く使って人との係わりを覚えていくのだろうと思います。
でも、私にはそれが出来なかったのです。

聞くのが苦手触られるのが苦手だと、人との接触は極端に減ります。
離れていても出来る「見る」に頼るのは、すごく当然の流れだったような気がします。

自分なりに社会性を身に着けるために得意を生かす努力をする、その努力で自分なりの「上手くいく方法」を考え出すのだと思います。
それが五感全てを総合的に使える定型者との感覚の差になって表れるのだと思います。

発達障害者には「苦手な感覚」の個人差があって、私のように「聞く」と「触わられる」が苦手な人もいれば、「見る」が苦手の人もいたりするわけです。
自分に残された「使える感覚」を使って「苦手な感覚」をカバーする努力がされるわけですから、身に着ける自分なりの「上手くいく方法」も当然のように個性的になるわけです。

使える感覚はこうした生活の中で鍛えられ、飛びぬけた能力として凸部分になり、避けて通った苦手な感覚は凹部分を形成する…。

ただ、発達障害者本人は、定型発達者の感覚を自分で体験していません。
自分自身の感覚が周りから見れば「特殊」であるという認識を持っていないのです。
だから、最初は自分の感覚がまわりから見て「ちょっと違う」という自覚はありません。

発達障害の凹を引き上げるのは至難の業です。
例えば私自身の聴覚過敏を直すことは難しい、ざわついた環境で特定を音を拾いだす作業を訓練で習得できるとは思えないのです。

必要に迫られて凸凹が出来上がる、それの凸と凹の両方を認めて「そういうところがあるね」と社会が理解して伝えてくれることが大切だと感じています。

障害者としてではなく、そういう個性として認めてほしいというのが本当のところです。
今はまだ、そんな段階でないこともわかっています。

目に見える個性がバラバラなのに、同じ発達障害のカテゴリに分類されるのは何でなのか?
その基本的な部分の説明を丁寧にしていく必要があると思っています。

私のブログは私個人の具体的な感覚をお話ししています。
私はASDという発達障害のカテゴリに分類されていますが、私=ASDではありません。
あくまでも私の場合です。

ASDとはどういう感覚なのか…のリアルな事例をイロイロな人が発信してくださればと思います。
人それぞれだということを、定型者に伝えていければ良いなと思います。

旧ブログ アーカイブ 2018/12/23

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?