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Episode 325 楽しさを模倣するのです。

夏野菜の季節です。
もう80歳になる私の母は、少しばかりの畑を耕して野菜を作っています。
家庭菜園のレベルよりはちょっと広い畑、でも作っているというには小さい、50坪ほどの「猫の額」程度の畑です。
そうは言っても、何処かに売りに出すわけではない、家族で食べる程度の野菜を作る…というには十分すぎる大きさの畑で、ウチで食べる季節の野菜はありがたく母の手作りだったりします。

タダね…露地物の季節野菜は美味しいのですが、一気に採れるのですよ。
この時期はキュウリ・茄子・ピーマン・トマトが中心。
その他に枝豆・オクラ・モロヘイヤあたりが少しばかり。
収穫しても次から次へと実り、冷蔵庫の野菜室はギッシリ…。
こうなってくると、食べ方もワン・パタンでは飽きてくるのです。

そこで登場するのが "Cookpad" をはじめとするレシピサイトです。
いやぁ、便利な世の中になりました。
作り方とか、動画で丁寧に教えてくれるのですから。

昨日のブログ記事で、合成された疑似体験の記憶が私の頭の中には "YouTube" の動画のように保管されているとお話ししました
それって、例えば…雑誌で見た料理のレシピを頭の中で "Cookpad" の動画にするって話です。
それも、その料理を作っているのは私とかパートナーとかです。
似たような料理を作った経験から、こんな感じに仕上がっていく…というのを勝手に動画にして脳内に収めるってことです。
凝った料理でなければ、味付けも調味料などの配分が分かれば大体の見当がつく…って「家庭料理あるある」なワケでして、そんな感じで私の記憶は勝手に合成されてしまうのです。

後は、脳内で "Cookpad" の動画を再生しながら料理するのですが、この時はもう自分が以前にその料理を作った気分で料理しているワケですよ。
誰の損にもならない、このレベルの記憶合成は、とっても便利です。
外から見ている分には、レシピを見て、理解して、その通りに料理するというだけの話なのですから。

ただ…最近になって感じるのは、これも「自他の境界線の緩さ」がもたらす世界観ではないか…と言うこと。
レシピを理解するのに、わざわざ一人称や二人称の動画を作る必要はないワケです。
「作って楽しい」の部分を創作で混ぜ込んでいると気が付いた時、これも結局のところ「誰かの楽しい」と「私のたのしい」が緩く結合して混ざっているのではないかと思ったのです。
雑誌のレシピに載っている調理をしているその人の写真を「なんか楽しそうに料理してるなぁ…」と三人称視点で見ているつもりで、一人称や二人称の私やあなたに置き換えている…。
人の行動を見て呑み込んでしまうカオナシ

記憶合成の裏側には、きっと他者を呑み込んで模倣することでしか自己表現できない「自他の境界線の緩さ」を抱えるカオナシがいる。

この仮説が正しいかは分かりませんが、そう考えると腑に落ちることがいくつもあってね…。

旧ブログ アーカイブ 2019/8/5

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