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Episode 321 呑み込んでしまってはダメなのです。

宮崎駿監督のアニメーション映画は、世界的にも評価が高い名作が多いのは皆さんもご存知の通りです。
『千と千尋の神隠し』は、そんな宮崎監督作品の中でも「これが一番面白い」って一押しの人もたくさんいるのでしょうね。
その中に登場する「カオナシ」は、物語を構成する上で重要なキャラなのです。
私はASD者の「答え合わせをする癖」が、カオナシに見えることがあるのです。

どう言っていいのでしょうか…あなたの「欲しいと思うもの」を手から出すというあたりとか、それを「違う」と言われて逆上するところとか…。

そもそもカオナシはコミュニケーションが苦手で「あ…」「え…」しか言わないわけで、何かを借りて自分が存在できる居場所を作って安心しようとする存在なのだと思います。
物語の中では、「千」に居場所を見つけようとしたカオナシが、千が欲しいと思っているだろうものを探しながら周囲を飲み込んで暴走していくワケで、それでは一体カオナシの気持ちってどこにあるのだろうね…って言うのは、全てを吐き出して元の姿に戻って、銭婆の下で「ここに居な」と言われて落ち着くことで見えてくると思うのです。
そこに居場所を見つけた…と言うことかな。

カオナシは己というものを持たない…と評されることもあるようですが、「己を持たない者が居場所探しなんてするのか」と私は思います。
本当は自我をキチンと持ち合わせていて、でもそれが表現できないから借り物の姿を用意して、相手が喜ぶことを探して、自分の居場所を作ろうと努力するのだろうと感じるのです。

振り返って、自他の境界線が緩いASD者の感覚です
コミュニケーションが苦手なのはカオナシと同じ…身近な人との良好な関係を作って自分の居場所や存在価値を見出したいという自我も持ち合わせているとしたら、千が欲しいと思っている「だろう」札や金って、千という立場に立ったカオナシが、カオナシの視点で見ていることになりますよね。
それって…二人称の千を、一人称のカオナシが「あなたの感覚を一人称で囲ってしまっている」ことで生まれるASD者の発想ですよね。

昨日のブログでASD者の「自他の境界線が緩い感覚」とは、「鏡を持たない私が私自身を映し出せない」から全てを一人称の立場で見てしまうことで発生するのではないか…と指摘しました。
でもそれは決して自我が未成熟なのではなくて、自分自身を客観視出来ないことで自分自身の姿が分からない、それ故に自我の表現方法が未成熟だからなのかも…思うのです。

一度、『千と千尋の神隠し』をカオナシを主人公にして見てほしいと思います。
カオナシの居場所探しの旅がキチンと描かれている、千が銭婆の家を後にするとき、カオナシはあなたも私も一人称で囲ったりしていないように私には見えます。

「きっとあなたの答えはこうだろう」と、あなたになりすました自分の立場で答えを予想するASDの私って、カオナシが番台蛙を飲み込んで暴走していく姿そのものです。
その人の視点に立とうとして、乗り移る…。

素のままのカオナシでいること
その未熟なコミュニケーションで社会に on すること。
それをみとめること。

私は銭婆の元で居場所を見つけたカオナシで居たいのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/8/1

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