Episode 760 そこに危うさがあるのです。
前々回のnote記事を書いてから、ずっと考えていたことがあります。
前々回のnote記事「私が代表ではありません。」は、あずさ(@41azusayumi)さんとのスペースを振り返り、そのスペースでの発見で特に印象に残ったことを記事にしたのです。
その中に登場する、私のこの(Twitter時代のものなので、敢えて)ツイートへの思いは、今も変わりません。
今年の4月に書いた記事「紐付け作業が必要です。」でも…
…と、書きました。
私は私のこのアカウントのnote記事や、Ho+(@hotas10001) 名義のX(旧Twitter) アカウントで、一貫して発達障害…私のような「自閉スペクトラム」者などが、自身の日常をもっと語る必要があると主張してきました。
その一方で、前回のnote記事「私が代表ではありません。」では…
…という、私以外の「同族」の言葉で十把一絡げにされることへの警戒心を表現したのです。
私の思う Autistic(自閉の民) は、さいこどくたーK(@psydrk) 先生が言う通り、「他者視点が持てない」という共通点を持つ人のグループです。
但し、その根本的要因は同じでも、性格/知能や生育環境と言った内的要因と外的要因の両方において全く同じ条件になることはあり得ないから、Autism 由来で表出する事象が個別に異なることになる…という認識です。
前々回のnote記事では、ここに定型的な「一を聞き十を知る」感覚を持ち込まれる危険性に触れたワケです。
要するに、私に表出する Autism 性は「私個人」についてのモノであり、あなたに表出する Autism 性は「あなた個人」についてのモノだと言うことです。
そうですね…あなたは「米味噌」で、私は「麦味噌」という例えはどうでしょう。
同じ味噌でも原料になる素材が違えば、当然風味の違う味噌になるワケです。
一方で、あなたも私も、素材に塩と麹を加えて発酵させる味噌であることに変わりはない…みたいなこと。
大枠としての Autism は、その味噌造り共通の工程にあり、出来上がった味噌の味や風味が Autism として共通になるワケではない…ということ。
Autistic をはじめとした「発達障害者の文系読み物」を書くにあたり、この部分の線引きがね、とても大切なのだと改めて思ったのですよ。
私のこのアカウントの過去記事を見返してみると、この辺りの意識が弱い記事を見つけてヒヤヒヤします…この記事なんて、かなり危ない。
私の一人称視点のモノローグであるうちは問題ないのですけどね、誰かの気持ち持ち込んでを書くとなれば、書かれた人への確認が必要になる…「だろう」で書けば、それは想像でしかない不確かなモノとなるワケでして。
そこに読者の社会一般的な「類推バイアス」が掛かれば、Autism とは、Autistic(自閉の民) とは、そういうモノだというデマが独り歩きしかねない…。
引用したnote記事「見守られて育つのです。」に書かれた内容で言えば、のびのびと行動させてくれたと思ったのは私で、書かれた本人である次女は…本当にのびのびと行動していたのか…と。
幸いなことに、次女は琵琶湖岸の町のことを悪く思っていないので、大きな問題にはなりませんでしたが、下手をすれば「何を勝手なことを」案件になるワケでして。
完全なフィクションである小説や、私個人のことと限定して書くエッセイであれば、特に表現に制約はないでしょう。
ただ「あなたの気持ち」に触れる表現をするならば、あなたの気持ちの尊重があり、その上でそれを知った私の意見を言わないと…。
コレは私が進めて行きたい「発達障害者の文系読み物」だけ言えることではなく、全ての読み物に共通などだと思います。
ただ、既に数多く存在する定型一般 (NuroTypical) 側の書物と比較して、数の少ない非定型 (Atypical) 側は、人口も書物の量も、圧倒的に分母が少ない分だけ一冊/一話ごとに掛かる影響力が、大きくなることは否めない…。
「他者視点の弱さ」という弱点を抱えた Autistic の私が、他者視点を扱う文章を書く危うさ…でしょうか。
ここ数日、そんなことを考えていたのです。
味噌の話題が出たので…。
味噌の種類についての記事、シンプルでわかりやすいこの記事を紹介しておきます。
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