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紐付け作業が必要です。

私は以前、とある雑誌のコラム欄への執筆をお願いされたことがあります。
私の人生で(今のところ)唯一の有料寄稿記事でもあるその記事の内容は、「定型発達」とは何か…という用語解説だったのです。
今から2年ほど前のことです。

こころの元気plus 2022年7月号より

私が書いた文章ですが、有料の雑誌に掲載された記事ですからね、その内容を勝手に転載するワケにはいきませんが…。

発達障害に関する用語解説のハナシだったので、「やってみたい」とお返事したら、お題が「定型発達」というワードだった、ビックリ…というのが私の正直な感想でした。
ハッキリ言って、ものすごい「変化球」が飛んできた気がしたのです。
だって…発達障害に関するダイレクトな用語ではないじゃないですか。
はてさて、コレをどうやって解説しましょうかねぇ。

先日のこと、野次牛@ADHDサバイバー(@yajiusiyajirusi)さんの X へのポストを見て、その2年ほど前に「どうやって記事を書くか」悩んだ時のことを思い出したのですよ。

「現代社会は定型発達という数的優位者に便利に出来ている」…は、発達障害という数的に少数な人たちを蔑ろにした結果ではなく、発達障害という少数者の概念自体が認識される以前からの社会が、現代社会の下敷きになっているからなのですよね。
そこに ADHD/AS"D"/LD などと呼ばれる「発達障害」の概念が炙り出されてきたワケです。

野次牛さんの指摘は、その定型発達特性に合わせて設計された社会から浮いてしまう「発達障害者の特性」だけを理解するのではなく、現代社会の仕組みの方も理解しないと、社会生活を送る上での「落とし所」が掴めないよね…という指摘なのだと、私は理解しています。

私は「定型発達」というワードを解説して下さい…という執筆依頼を目の前にして、発達障害という概念を炙り出すことになる、定型発達という概念の存在を意識せざるを得なくなったワケです。
A4サイズの雑誌1ページの記事、800文字という字数指定がある中、文章を捻り出すという経験は、なかなかのものでした。

さてさて、先ほどの野次牛さんの素晴らしく的を得たポストには多くの「いいね」が付き、多くのリポストがされました。
そして「〈叱る依存〉がとまらない」の著者である村中直人(@naoto_muranaka)先生が引用されたリポストが、こちらです。

埋め込みでは全文の掲載ができないので、改めて全文を…。

これは本当にその通りで

「特性のある人」「特性のある子ども」

若干、定番化してしまったこれらの表現、他に指摘している人がいなさそうなので、私一人だけでも発信し続けようと思います。

こういった表現が、発達障害、もしくは何らかの少数派の特性のある人を意味する言葉として使用される背景には、多数派の「特性」は透明化され特性ではないことにされている現状があるように思います。

「全員に特性がある」と言うと、発達障害特性は多かれ少なかれ全員が持っているという話だと捉えられがちなのですが、ここで言いたいことはそういう話ではありません。

一人の人間には無数の「特性」がありそれらのうち多くの人が共通して持っている特性は、社会的にそこが基準になるために特性として意識されません。だけどそれは明確に本来は「特性」なのです。

一方の特性が透明化されてしまうことの最大の問題は、それらをフラットに相対化して理解することが難しくなることだと思います。
そうなると「違い」を優劣の視点でしか捉えられなくなってしまうので、対応、対処が難しくなるように思っています。

村中先生のポスト「全文」を掲載

野次牛さんのポストは、あくまでも「発達障害者から見た『定型発達という特性』の理解」という意味で語られているのだと思います。
コレを理解することで、なぜ社会はそのように考える(または行動する…など)のが普通とされるのかがわかる、私がその社会で求められる考え方/行動が上手くできない理由がわかれば、「どのように手を打つのか」の道筋が描きやすい…ということなのだと思います。

一方、村中先生のポストは、定型発達が社会を作り上げる基準となるために、特性として認識されずに「透明化」することによる問題を指摘します。
実はそれ、定型者が自らの特性について考えないだけではなく、非定型の私たちも言えるのだ…と、私は思うのですよ。

冒頭で取り上げた「定型発達」というワードを解説する記事ね、その「お題」が来なければ、私も「定型とは」を言語化しようと思わなかっただろう…と、思うのです。

「発達障害」は「定型発達」という社会標準があるからこそ、定型と対比する形で異質を解明する研究対象になるワケですから、本来なら比較の対象である「定型発達」の定義が明確である必要があるワケです。
ところが、その「定型発達とは」…という研究が進んでいないように思うのです。

先日の私のポスト…「発達障害」は、特性としての研究が進む一方で、その研究と発達障害者の生活などの具体的な日常との結びつきが弱いのだと感じます。
だから、その発達障害者的な特性を持つ当事者のエピソードが多く必要だと思うのです。

そしてその裏側にあるのは、エッセイや小説など、日常のエピソードが多く溢れる定型発達者の「特性研究」の遅れと、研究が進んだ上でのエピソードと研究の紐付けに対する期待です。

定型発達と発達障害の「特性研究量」と「エピソード量」の関係は、そのボリュームの比重が正反対にあるように感じます。
このボリュームの均衡が取れた時、ニューロダイバーシティは理解に向けて大きく前進するのだろう…とか、私は思うのです。


因みに、私が寄稿したコラムは、「認定NPO法人 地域精神保健機構・コンボ」が発行する「こころの元気plus」の2022年7月号に掲載されています。
興味のあるモノ好きな方がいらなら、ぜひバックナンバーを漁ってみてください。
電子版で無料掲載されているハズです。

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