Episode 672 「できるを求める」は限界です。
Twitterで話題になったこの問いに対して、ASDが治る「魔法の薬を飲む」と答えた人が回答者の3/4を占めたそのワケを私なりに考えてみた…というのが前回のお話でした。
多くの人が「魔法の薬を飲む」と答えた背景にあるのは、ASD気質が持つプラス要素とマイナス要素を比較して、「それでもやっぱりASDであることを望む」と思えるほどプラスとマイナスのバランスが取れていないからなのだろう…と思います。
それほどまでに、ASD気質が当事者の社会生活に大きな影を落としている、私はそう思うのです。
前回の記事でも話題にした通り「ASD(自閉)の本質」とは、他者視点の弱さから来る「私の行動を(社会的に)コントロールすることの難しさ」なのだと思います。
これはどういうことなのか…を、具体的に言うならば、「(対面する)あなたの視点に立って考えてみて」という場面で、あなたなら…
…の、どちらが「(対面する)あなたの視点に立って考えてみて」の問いの答えだと思いますか?
おそらく多くの人は「a」と答えるでしょう。
私も「a」と答えるのですよ。
でもね…自分の思考は「a」を実行してくれない、そういうことなのです。
以前に私は宮崎駿監督の名作アニメ映画「千と千尋の神隠し」に出てくる「カオナシ」がASDの私そっくりだよね…というハナシをしたことがあります。
このカオナシの行動こそが、先ほどの問いの「b」なワケでして。
カオナシは「自分が千の立場なら何が欲しいのか」を、千の立場に自分を置いて、「自分なら何が欲しいのか」という思考に置き換えて動くのです。
これでは千の気持ちは置いてきぼりですし、これが強く出過ぎてしまえば、「自分勝手/ワガママ」と思われても仕方ない…千がカオナシに対して「違う」という態度をとった理由はコレですよね。
ASDの私は、現代社会で「a」が求められていることをよく知っています。
でも、あなたの立場に立った時に、あなたの立場から私を見るスキルが(先天的に)ない(または弱い)のです。
だからあなたのことを思うほどに、あなたの立場に立とうと努力した結果として「b」が強く出てしまうワケで…。
「a」が求められると知っているのなら「a」はできるのではないのか…という問いは、自分がフィールドに立っていないなら可能なのですよ、少なくとも私はそうなのです。
「彼と彼女」のように、客観的に見ている分には理解可能なのです。
だって、そこに私という一人称は登場しないもの。
でも…私という一人称位置でフィールドに立った時、あなたという二人称位置から一人称の私を見ることが、どうやっても上手くいかないのです。
全てのASD(自閉)者が私と同じワケではありません…が、自閉の自閉たる自分本位でコダワリが強いとされる部分は、「他者視点の弱さ」が作り出す「あなたの立場から私を見ることができない」という根の、あなたの目に見える枝葉の部分なのでしょう。
他者視点を持つ…ということをトレーニングで獲得できるのであれば、この問題は解決します。
でも、トレーニングとは能力の開発なのですよね…必要な素材や知恵・技術という「種子」が無ければ開発はできないのです。
私に「他者視点」を芽吹かせる種子がなければ、トレーニングしても能力は開発されない…残念だけど。
社会は大多数の人に都合が良くできている…という現実において、大多数の人が意思疎通(コミュニケーション)をする方法で「他者視点」が標準装備されていることは「織り込み済み」なのだと思います。
この標準装備されているハズのベーシックな能力が無い(または弱い)ということは、なかなか理解しにくいことなのだと思います。
前回の記事からの質問である「魔法の薬を飲む」…の背景にあるのは、この「他者視点が無い(または弱い)」ということを、自分自身を含めて社会が認められないこと、それがASD気質のアイデンティティを押し下げることにつながっているのだろう…と思うのです。
このASDマイナス側の社会的ハンディキャップの、プラス側にバランスを取る「何か」を持ち得ることの難しさ…とでも言いましょうか。
ですから、この天秤(社会)の仕組みを手放すということが大事になる…という意見が生まれるワケです。
「ない」ものをフォローする…という発想は、「ある」側にとって重荷(余計な仕事)になるからね、「ない」を認めてそれをデフォルトにすれば良いじゃない?
「ニューロダイバーシティ」と呼ばれる考え方は、このような発想を原点にして成り立つのだと私は思うのです。
「魔法の薬を飲む」というのは、できることを基準にした社会で生活するために「できるようになる」を求めるという「医療モデル」だからこその発想なのだと私は感じます。
そもそも「できないことは求めない」という社会なら、薬を飲む意味はないハズです。
現代社会のハンディキャップとなる部分を「ハンディキャップと見なくて良い」とするならば、ASD気質にマッチした才能の部分を上手く活かせるのかもしれません。
私はこの「魔法の薬を飲みますか?」という問いに、現代社会の多様性に対するの限界を見るのです。
そしてニューロダイバーシティが求める発想の原点には、「できるを求める」という重荷を下ろすことがあるのだと、改めて感じるのです。
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