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Episode 606 経験も背景も違うのです。

私がASDであると「正式」に診断されたのは2014年の夏のことでした。
「WAIS-III」「ロールシャッハ検査」「バウム検査」などを受けて、ASDであるという診断が下されるのです。
その後、2017年にはASD単体で障害者手帳を取得するに至ります。
2021年の秋に2回目の手帳更新を終え、現在「3期目」に入った私の、手帳取得に関しての気持ちは過去にも記事にしています。

そこで私がお話ししたのは、現状の障害者福祉が暗に指す「普通」の取り扱いに対する居心地の悪さです。

障害者福祉に「出来ないをフォローする」を求めるのは当然だと思うのです。
ただ、その「フォロー」が「施し」と区別できていないのではないか…と、私は感じるのです。
社会福祉に「出来ないから助けてあげる」を感じてしまうのは、マジョリティという社会を構成する主体である自分たちの生活で「支障をきたす部分を代行する」感覚がそうさせるのではないか…と。

私は先日、こんなツイートをしました。

何故その「論調」で発達障害が語られるのかには、その語る方の「人となり」が必ず反映されている点に、もう少し注目が集まると良いなどと思うのです。
何を拠りどころにして理論を展開しているのかの背景に隠されたものは、特に人格や性格という相対的な評価を求めるものには重要な観点だと感じます。

このツイートよりも少し前、私は長く重度障害者の支援をされてきた方とお会いしたのです。
ご自身のお子さんが障害者であるその方は、障害があることに不寛容な世の中で多くの苦労をされてきたのでしょう。
もう20年以上も、直接支援に携わってこられた方ですから、経験もノウハウもお持ちなのは言うまでもないのです…でも。
私はその方の言葉から「現状の障害者福祉が暗に指す『普通』の取り扱いに対する居心地の悪さ」を感じてしまうのです。

なぜ福祉を真剣に考えてきた方の言葉から「嫌悪感」を感じてしまったのか…ということを暫く考えていたのですが、漸くその答えが見えてきた気がするのです。
先ほどのツイートにもある通り、「何を拠りどころにして理論を展開しているのかの背景」が、私とは違うのです。

私のような成人期になってから発達障害と診断された人は、それまでは曲がりなりにも「普通の人」として生きてきたワケです。
このタイプの人は、社会生活で上手くいかない部分が二次障害として表に出る、その治療のために精神科などに通院する過程で二次障害を生み出す原因に出会う…というパタンが多いのですよ。
それなので、私の視点から「発達障害」を語ると、出来ることが基準だった世間の普通に無理に合わせることなく、出来ないを認めて出来ると区別しよう…というスタンスになるのです。
一方でその支援者の方は、支援無くして生きることが難しい障害者が「安心して生活できる居場所」を作ることに腐心されてきたワケです。
どうやったら「普通の社会」に居場所を作れるのか…という視点で「普通」が語られるのですから、私の視点と共通の「普通」になるワケがないのですよ。

同じように「障害と社会」を考えていながらも、出発地点が違うことで見える山の形が違う…ということがあり得るのだと、今回のことで私は思い知るに至ります。

私のこのnote記事は、成人期になってから発達障害と診断された私が感じる私の視点でのハナシです。
この視点から違和感と感じてしまったあの人も、障害を真剣に考えていらっしゃる方なのだと思います。
なぜあなたは、なぜ私は、そういう論調で障害を語るのですか?
そこにはその論調を導き出す経験や背景が必ずあるワケですよ。

特に自分にとってネガティブな内容が飛んできた時は、知識を増やすチャンスかもしれません。
カッとせずに受け流し、持ち帰って冷やしてから温め直す。
ここまで2週間かかりましたけど、やっとあの方の言葉を飲み込めるようになったと思います。
あとは、先方が同じように私の意見を聞いていてくだされば…などと思うのです。

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