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Episode 311 伝わる価値観が優先です。

ASDの人は「結論を先に出してから理由を考えることがある」と、昨日のブログで書きました
この話題は意外なほどに反響がありまして、村中直人(@naoto_muranaka)先生が Twitter でこんなご意見をよせてくださいました。

多数派方の結論を受け入れようとした時にASD者の方が後付けで理由を考え、それがどうもズレてしまうということは確かによくあることのように私も思います
そしてその上で大事なのは、なぜズレるかだと思うのです理由がなぜズレるのか私なりの仮説は「社会的(にんげん)情報の重視の差」だと思ってます
例えばこちらのブログで出てくる、妻さんの「子どもの怪我とマナー」と夫さん「家具の破損」の差って、理由に「にんげん」と「ものごと」のどちらが重視されているかの差と考えると分かりやすいですよね
勘違いして頂きたくないのは、ここでいう重視とは、自然に考えた時にどちらが先に頭に浮かぶのかというレベルの話であり絶対的、固定的な思想の差という話ではありません
私はこういった違いのことを、脳や神経由来の文化の違いと表現することが多いです
ものごとの感じ方や、考え方、価値観の差を生むこれらの違いは、目に見えないからこそ、相互理解とよりよい関係性構築のために必要な視点だと思っています

ハッとさせられたのは、「にんげん」と「ものごと」のどちらが重視されているのか…ということ。私の場合、圧倒的に「ものごと」に注意を引き付けられる傾向があるな…と。

「人を軽視しているということではない」と、やんわりと先生も仰っていますが、ものごとに注意を引き付けられるのは、やはり私が持つASDの思考パタンが優勢だからということになるのでしょう。

この Twitter 上の例で言えば…
「子どもの怪我とマナー」は、怪我するかもしれないというレベルで、怪我しているワケではないですし、マナーが良くないについても「社会的なモラルの基準」は個人によってブレがあるワケで、注意する前に「夫」と「私」の認識を摺り合わせておく必要があるように私は感じます。
それに引き換え「家具の破損」については、床につく傷は絶対的な評価で、注意の視点が明確です。

子どもに対して注意しなければならないことは理解している状況の中で、どちらが明確な基準として子どもに伝えられるか…ということを考えた時、「絶対的な傷」という目に見える評価を前面に押し出した方がキチンと伝わると評価してしまうということなのだろうと思うのです。

ASDの私は、社会的な相対評価が苦手です。
法律のような絶対的な基準は比較的理解しやすいのですが、モラルやマナーと言った価値観は結構難しい…なぜならそこには「立ち振る舞い」や「美しさ」という別の基準が混ざってくるから。
その「美しさ」を併せ持つ価値基準があって、そこからモラルと言う価値観が生まれる場合、「理論→結論」が私にはできなくて、理論の部分が空白のブラックボックスになってしまうワケで、結論からカラのブラックボックスの中をどんなに探しても答えなんて見つからないのです。
つまりね…ここの部分が迂回路を経由する答えの話です。

あなたが「ふつうはある」と思って疑わない「立ち振る舞い」や「美しさ」が私は連動されていないことを、私も相手も認識できていない。
それが先生の言う「社会的(にんげん)情報の重視の差」で、「脳や神経由来の文化の違い」ということなのだろうと思うのです。

そうじゃない、それじゃない。
私もパートナーに何度となく言われてきた「分からない何か」の正体は、私自身が持ち合わせていない価値観だったのかもしれません。
パートナーに「その価値観」を教えてもらいながら生活している…それが私の姿なのだと、妙に納得するのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/7/22

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