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Episode 196 改めて思いなおすのです。

原点を振り返って、このブログを書き始めたキッカケと目的は何かと問われれば、ASDという発達障害を生まれながらにして持ち、社会で苦しんで二次障害を発症した私が「精神障害者保健福祉手帳」を入手してから改めて感じた、「私はひとりの人間である」という思いを誰かに伝えたかった…ということです。

ブログのサイドガシェットの文言は、書き始めのころから変えてません。

自閉スペクトラム症(ASD)で精神障害者保健福祉手帳(3級)を所持しています。 発達障害やLGBTなど、社会的マイノリティが正しく理解され、偏見なく生活できる世界を実現したい。 社会的マイノリティの地位向上なんて言いません。 もとより私たちの地位は平等に用意されているはず。 口を噤んだら理解されません。 だから話をします。 先ず私のことを知ってください。

私はこのブログを書くにあたって、幾つかのルールを作りました。

「私の意見は書きます、でも私の感情は極力排除します。」
人間ですからね…毎日書いていれば体調が悪い日だってあるわけでして、全部が全部「ドライ」というワケにはいかないのですけどね。

「私の経験は書きます、でもそれを押し付ける気はありません。」
実体験に基づく私の思考は聞いてほしいのですが、だからASDは…という一般論ではない点は注意したつもりです。

私が書きたいのは、発達障害は…とか、社会的マイノリティが…とかが、マジョリティからはみ出した「生きにくさ」を心情的に訴えるとかではなくて、その思考でありその状況であり、生きにくくなってしまう社会の狭さと私みたいなことそのもので、それをなるべく平易な言葉にしたいのです。

左利きとハサミの話はこのブログで頻繁に顔を出しますが、左利きの不便さは右利きには理解しにくいのだと思います。
例えば自動改札、例えばホテルの朝ビュッフェでの横レードル、そしてハサミ、野球は内野手で不向きなポジションがあるとか…。
でも、左利きは障害とは扱われない、10人に1人いるとされる左利きは、右利き社会の中で不便を受け入れて生きているワケです。
右利きの人は左利きの不便を意識して生きているかといえば、違うでしょうね。

発達障害者やLGBTの当事者の数的統計は各種あって、数字の振れ幅が大きいので正確なところは分かりませんが、仮に左利きと同じくらいの人がそれぞれいるとして、現状として理解がどこまで進んでいるのか…と思うことがあります。

マジョリティがマイノリティを理解できない…というのは私が「左利き的な不便」から得た正直な意見です。
でも、具体的にマイノリティの思考を感情論以外で、学術的要素以外で言葉にしている人って少ないじゃないですか。

小さくても良い、私はASDという特性による社会的不便に関係した「小話」を感情に左右されずに淡々と語りたい。

悲しい事件や、不毛な争いが起こるたびに、当事者が置いてきぼりを喰ったところで議論が進む…。
そこにはマイノリティがマジョリティに理解されていない現実があるのだろうと思うのです。

少しでもマジョリティにマイノリティの感覚が伝わって欲しい…。
そのためには、感情論ではないASDの思考を扱う話が必要だと思っています。
そんなことを書いてくれるブロガーや文筆家がもっといっぱい現れると良いな…と思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/3/29

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