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Episode 257 「擬態」を自覚するのです。

最近になって「擬態」という表現が気になっています。
どうやらそれは、ASD者が自らを社会に適応させるために編み出した「普通に見える術」を指すようです。
私個人で言えば、何回か話題にしている「再生」という技術がそれにあたるのだと思います

私は聴覚と触覚に過敏/鈍麻があり、「聞く」「触られる」という苦手を避けるが故に他者との接触機会を自ら狭めてきたのだと思います。
その結果として、生活上のコミュニケーション獲得機会が少なくなり、標準的な年相応の反応を得るために、インプットとアウトプットを強引につなぎ合わせる特殊な思考回路を形成したのだと、今は理解しています。
不足するコミュニケーションスキルはマンガ・小説・ドラマや映画などから補い、自分の知識と融合させて新たな記憶を作りあげるという、YouTube型の映像記憶を編み出したのです。
但しそれには「VR」という欠点があって、それ故に三人称視点の私が存在してしまう…つまり本当の私自身ではない「擬態」が世の中を歩き回っているということになるのだと思うのです。

先日、Twitter上で

うちの夫の場合は「大丈夫?」はこの場面では言わないといけない言葉として言ってるから心がない感じ
だから夫から「大丈夫?」と聞かれると私は絶対に「大丈夫じゃない」って答えて困らせてる

とのツイートを見ましました。
これね、すごく的を得ていると思うのです。
当にインプットに対してのアウトプットを強引につなぎ合わせた「三人称視点の私」で「擬態」あることを見事に見透かしているワケです。
これで「大丈夫じゃない」って「外モード」の私を指摘されるとなると、「擬態」の化けの皮を完全に剥がさせることになると思うのです。

私はASDを自覚する過程では、この「擬態」そのものを否定する必要はないと思っています。
でも「擬態」であるという自覚は非常に重要だとも思います。

私は自分自身が「擬態(≒外モード)」なのか、そうでないのかを明確にコントロールできる必要があると思います。
「擬態」なしにして世の中で活動することは難しい。
外モードは、私の言う「社会にonする」ための手段でもあるワケですから、そのものを否定してしまったら生活できなくなってしまいます。

私がASDを自認する前は「一人称の私」と「三人称の私」の線引きが出来ていなかったのだろうと思います。
どちらも同じ私として、ノーコントロールで自由自在に両方を行き来していたのでしょう。
それが身近な人を悩ませる原因になっていたのだろう…とも思います。

だからと言って、外モードである「三人称の私」を排することはできません。
それ故に、コントロールすることを考える。
100%のコントロールは難しいけれど、上手く付き合っていければ、きっと自分の将来は明るい。

ASDの自認で重要なのは、この辺なのかもしれません。
自分を否定することを考えても、前には進まないと私は思うのです。 

旧ブログ アーカイブ 2019/5/29

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