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Episode 477 自覚が寂しさを生むのです。

細田守監督による長編アニメーション『おおかみこどもの雨と雪』は、ニホンオオカミの末裔である「おおかみおとこ」の彼との間にできた二人(匹)の子供「雪」と「雨」を、母親の「花」が女手一つで育てていく物語です。
物語の主題は「親子」なのですが、ニホンオオカミの血を引く「雪」と「雨」は、それぞれにオオカミの血を引くことに悩み、それぞれの意思で自分が生活する場所を選んでいくのです。

引用したツイートの通り、私は「雪」と同じように「人間」として生きる道を選びます。
つまり、ASDでありながら定型の社会で定型の方々と共に生きてく…ということです。
もちろんこれはあくまでも比喩表現であって、最初から人間であるのですが…。

映画の中での「雪」の描かれ方は、自分の中の「オオカミ」を隠して人間として必死に生きようとする悩める女の子です。
蛙や蛇が大好きなのに触らす、可愛いワンピースを着て「人間」の女の子らしく振る舞おうと努力するのですが、転校生の「草平」に「けもの臭」を指摘され、動揺するワケです。
どんなに普通の女の子を装っても、自分の体からオオカミの血を抜くことは出来ず、「普通」になれないことへの苦しさは、草平へのカミングアウトで一気に噴き出すことになるのです。

自覚したASDは、当に「雪」の苦しさを持ち合わせる…と私は思います。
ASDの自覚は自覚でしかなく、自覚したからASDが消えてなくなるわけではないのです。
それは、「雪」の体からオオカミの血が消えてなくなるワケではないことと同じだと私は思っているのです。

映画のラストは「雪」の小学校卒業で、中学生になった「雪」の姿はエンドロールの写真として登場します。
その後も人間として生きる「雪」ですが、その体には間違いなくオオカミの血が流れ、オオカミとしての習性に悩むことも、人生の中で数限りなくあるハズだろう…と、私は思います。

自覚後のASDが、自分自身のASDときちんと向き合えるのか?
それは、小学生時代の「雪」の姿と重なります。
オオカミを隠して人間に寄り添い、自分を偽る「袋小路」

物語の冒頭に、おおかみおとこである彼は、愛すべきパートナーになる「花」にオオカミであることを告げ、「それでも良いか?」と確認するシーンがあります。
その後、妊娠した「花」のために滋養栄養満点の「キジ」を捕まえて持ってくるシーンなども描かれるワケですが、彼は自分の中にあるオオカミを押し殺すだけでなくキチンと折り合いをつけて、その上で人間として生活する術を作りあげたのでしょう。

私の中の「オオカミ」は、消えない。
その寂しさから、自分自身のアイデンティティを見つけられるのか。
もう一度、そんな視点でこの映画を観てみてはいかがでしょう。

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