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Episode 308 ハイブリッドな私です。

改めて、ASDである私の、私自身へのスタンスを書き記そうと思います。
これは私自身の問題であって、全てのASDという発達障害を持つ人に当てはまるワケではありません。

私の基本的なスタンスは、発達障害は「個性」であるという考え方です。
但し、その個性で社会生活で支障が出る分については「障害」であると思っています。
ですから、発達障害の特性は「個性」であって「障害」でもあるという裏と表の顔を持つということになります。

社会と言うのは時代によって大きく考え方が変わっていくものだと思います。
戦前の価値観が今の世の中にまんま通じるわけもなく、かと言って伝統的に守られてきた部分もあるワケで、全てが今風に「進化」したわけではないのだと思います。
その時代の価値に合わないものは、どの時代でも「厄介なも」のとして取り扱われ、場合によっては弾圧を受けるようなケースも発生したのだと思います。
それは、発達障害の話に限らず、身体障害や難病、性別、思想…など、社会を作る主流から逸れてしまったものに対しての風当たりは、どの時代でも冷たいものだったのだろうと、私は考えています。

私の生きるこの時代にも、この時代の流れとか仕組みとかがあって、みながその流れに乗って生きようとしているのだと思います。
それが所謂「ふつう」と呼ばれる社会的な常識なのだと思います。
その「ふつう」に乗り切れない部分が「障害」だというのが、私の考え方です。
だから、「障害」と言うのはその時代によって、考え方によって枠組みが変わって行くものだと私は考えているのです。

私は「ふつう」の部分と「発達障害」の部分を持つハイブリットな人間で、今の社会生活で支障が出てしまう「障害」をフォローしてくれる仕組みとして「障害者手帳」をはじめとする社会福祉があると思っているのです。
私の考え方からすると、障害者手帳を持つ人が「全てにおいて障害者」だということにはならないのです。
だってそうでしょう、例えば片腕が先天的にない方がいたとして、でもその人は片腕がないこと以外で何か障害があるのか…と問えば、たぶんない。
片腕がないことで、考える力が足りなくなるとか…発生しないでしょう?
知的障害があるとして、それが原因でその体に障害がでるのでしょうか?
発達障害も同じことだと、私は考えます。

今の世の中を歩くのに「ちょっと足りない部分」を持つ人、それが障害者だと思います。
そして障害者は全てにおいて障害者ではなくて、ふつうの部分をたくさん持ち合わせるハイブリットな人。
障害者手帳は、ちょっと足りなくて困っている部分をフォローするゲタであるということ

私は自分自身がASDであるという診断を受けて、ホッとしました。
上手くいかない部分がある理由を聞いたから、そう思ったのだと思います。
でも、それは「理由を聞いて安心してお終い」という話ではなくて、この先どのように生きていくのかという問いかけの始まりでした。
上手くいかない理由を全てASDのせいにしたら、ASDは障害そのものになってしまいます。
それは、私の脳機能特性は全てにおいて障害だから、考えていることが社会に適合しないのだと宣言するようなもの。

私のTwitterアカウントの固定ツイートです。

太陽系の一員であっても、惑星ではない私。
はみ出した部分、足りない部分。
ハイブリッドな私。

そんなことを考えながらブログを書いているのです

旧ブログ アーカイブ 2019/7/19

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