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学習で改善されません。

その昔、「自閉スペクトラム症(ASD;Autism Spectrum Disorder)」という概念は、いくつかのタイプに分かれていた…というのは、おそらく多くの方が知っている事実だろうと思います。
代表的なところとしては、知的障害を伴うとされる「カナー症候群」と、知的障害を伴わないとされる「アスペルガー症候群」があります。

私自身は「自閉スペクトラム症(ASD;Autism Spectrum Disorder)」の中でもアスペルガータイプにカテゴライズされるワケで、そのアスペルガータイプは「見かけの行動」から「積極奇異/受動/孤立」の3タイプに分類されていました。
ただ、私はこのアスペルガーのタイプ分けには先天的な発生要因があるのではなく、Autism 性の本質である「他者視点が弱いこと」を周囲の環境が指摘することにより、「弱点のカバー方法」として編み出されたライフハックである…と思っているのです。

Autism の基本資質は、他者視点の弱さであり、それ故に「私がコレをしたらあなたはどう思うか?」と言う客観性に乏しい点にあります。
だから、あなたが嫌がる(喜ぶ)だろうという想定をすることができずに「自己中心的な言動」を繰り出してしまう…それが他者視点があることを前提とする現代社会で異質に映るワケね。

そうは言っても注意を受け続ければ、「その言動はマズい」…と気が付くワケで、どうやったら行動を咎められないようにできるか考えた結果として「誰かの言いなりになる受動」や「我関せずを決め込む孤立」など、考えの行き着く方向の差でライフハックによるグループが作られる…と。
そもそも Autism 性に「大人しさ」があるのではなくて、「他者からどのように見られるかは関係なく自己視点の興味の赴くままに行動する」…であるとすれば、「積極奇異は Autistic の基本型の可能性が高いだろう」と私は思うのです。

そう言う観点から考えた時、「カナー症候群」と「アスペルガー症候群(積極奇異型)」の間には多くの共通点が見えてくるだろう…と。

こう考えると、知的障害がない Autistic は、自ら置かれた環境で生きる知恵として、「擬態」を試みる理由が見えてくるワケです。
ところが、それはあくまでも社会をサバイブするためのライフハックであり、それが本人が持つ Autistic としての資質とは違う「仮の姿」だとすれば、「仮の姿」を装う行為にストレスが掛かるのは必然…と思うのですよね。

どこまでデフォルトの Autistic でいられるのかは、「おとなしい/騒がしい」などの個人の性質と環境側の容認量で変わってくるにして、多かれ少なかれ現代社会を生きるために必要な「社会性」を擬態という方法で手に入れた、とした時に、そのストレスに耐えられない当事者が発生する可能性を、どのように考えたら良いのでしょう。

wikipedia「自閉症」より

誰もが一度は見たことがあると思う、この自閉度と知能の関係を表したこの図…。
果たして当事者が持つ「自閉度」は、学習することで下がるのだろうか…と考えた時、社会一般の定型/典型者が思うように「自閉度が下がる」ではないように私は思うのです。

そうは言っても、現代社会で生活する以上、突出するほどの「自己中心的な Autism 性『全開』の言動」を貫くことは許さないでしょう。
ならば、擬態の範囲を最低限にすることで、ストレスを受ける量をコントロールして、オーバーフローしないようにしないと…。

私は私の経験から、生まれ持った Autism 性は生涯持ち続けるもので、Autism 性が薄まる(弱まる)ことは基本的には「ない」と思っています。
では、「社会性が身に付いてきた」ように思われる行動は何か…と言えば、それは Autism 性質が原因の社会的不具合を、知能とライフハックでカバーする「ストレスを伴う言動」です。
より社会で上手くできるように…と締め付けをキツくすれば、当然ストレスも増えることになる…と。

そもそもアスペルガータイプの Autistic は、知能によって定型/典型が作り出す社会性に沿うように自らの行動を制御しているのだとした時に、Autistic の社会性の向上は、定型/典型者が持つ「ナチュラルな他者視点の感覚」から生み出されるモノではなく、強制的に発動させた人工的な他者視点と、生活の中から掴んだライフハックの駆使によるもの…と私は思うのです。

自閉度が下がる(定型/典型一般の言う他者視点を獲得する)…であれば、経験による学習によって社会性は向上するでしょう。
でも、自閉度は変わらない(定型/典型一般の言う他者視点は獲得できない)…であれば、経験による学習は、知識の積み上げでしかなく、その知識を使うために知能というリソースを割く動作(行為)が挟まることになるワケ。

裏を返して Autistic の「見かけの社会性の向上」を「学習による自閉度の下降」と勘違いすると、常に学習の成果が見られないことにガッカリしたりイライラしたりすることになる…。

改めて、コレを。
自閉は、学習では消えないのです。
当事者も支援者(家族やパートナーを含む)も、もっと自閉の本質を理解した上で、Autistic の社会性のあり方を考えないといけない…とか思うのです。

定型/典型一般が求める「社会性が身に付いた Autistic」は、定型/典型一般のストレスからの解放と同じ質量のストレスの所有を求められる…としたら、そのバラストを Autistic に押し付けているのかも…。

It is to be continued…

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