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Episode 342 捧げるものではありません。

私の思考はアタマの中をグルグルと回って、難しい理論を振り回したり短絡してヒューズを飛ばしたりします。
愛をあれほどまでに難しく考えていたのかと思えば、シンプルでダイレクトにカラダを使った関係に答えを求めたりして、結局のところは愛なんてものが何なのか…分からないってことなのかも知れません。

でも…私がパートナーを愛しているということに嘘はなくて、その表現の方法が分からなくて、その気持ちが伝わっているか分からないことが不安で切なくて…。
だからパートナーに手を繋いでもらえるとすごく安心します。
朝、玄関に出てきてくれて、両手を広げてハグを受け入れてくれるとすごく安心します
隣の布団から手を差し伸べてくれるとすごく安心します。
ちいさな子がスキンシップで愛を確認するみたいなことが、私には必要なのです。

でもこれは、ちいさな子の初めて受け取る愛のカタチとイコールではないのです。
それは親が子どもに対して「守るべき愛しいもの」として捧げる愛と同じではないのです。

パートナーと私は "even" な関係だということ。
私がハグで受け取ったぬくもりと同じだけの気持ちをパートナーに返すということなのだと思うのです。

ただ…直接触れるということには、長所と裏表の大きな弱点も併せ持つのです。
それは…ルーティンだけで帳尻が合わせられるということ。
愛のない身体接触が可能だということ
気持ちの一方通行があっても気が付かないということが起こり得るということ。
それはどの年代のどんな関係でも、実の夫婦間でも起こり得るということ。

私は相手の気持ちを察する能力が弱い…これは悲しいけれど事実です。
だからこそパートナーには「私が分かる形」で愛情表現をしてもらいたいのです。
それはルーティンで体を預けることを意味しないのです。
それは、私の気持ちにカラダを捧げることを意味しないのです。
私が欲しいのは、あなたの愛情。
ハグやキスやSEXは、私の愛と "even" なあなたの愛で出来ている。

男性である私は、体の構造上パートナーよりも腕力という意味での体力がある。
そこに乗じられるのではないか…という男性への恐怖心は、女性なら少なからずあるはずです。
私の気持ちに応えられないメンタルの日のパートナーが、最悪を避けるためにカラダを捧げるとか…あってはならないのです。

グルグルと大げさな愛の形を模索する意味は、私の性があなたを求める自分の気持ちに負けて暴力的にならないようにするため。
大袈裟を一周回して結果的にシンプルに落ち着いた私の愛情は、社会性という短絡防止のヒューズを用意したのだと思います。

そして、この愛のスタイルを支えるのは、自分の気持ちをストレートに言葉とスキンシップで表現してくれるパートナーの理解だということ。
私たちは、40歳代後半で50歳に手が届こうとしている世代の夫婦としては、恐らくビックリするぐらいスキンシップの量が多い…と思います。

お互いの気持ちを理解することは難しい。
でも、気持ちを伝えることはとても重要。
お互いの気持ちを伝えあう形が上手く見つかること。
ウチの場合…その形がシンプルにスキンシップだったということなのだと私は思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/8/22

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