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天井桟敷の人々 —悲しき道化師の映画

『天井桟敷の人々』が撮影されたのは1945年のフランスであり、今日、古典的名作と呼んで差し支えない作品だろう。

古いフランス映画、と聞くと尻込みする方もいらっしゃるだろうが、本作はとっても面白いので気になったら見てほしい。冒頭30分だけでも、美しい白塗り道化師の男や孤独な野心家、華やかで謎めいた女性に心を奪われてしまう。サスペンスあり、美あり、恋愛ありのミステリアスな映画だ。

あらすじを簡単に記しておこう。

映画は二部構成である。1820年代のパリで大盛況の様子を見せていたパントマイム劇場、フュナンビュル座で道化師として働いている白塗りの美青年、バチスト。ある日彼は路上で客の呼び込みをしていたが、そこで警察に窃盗の罪をかけられている美しい女性、ガランスを目にする。一部始終を目撃していたバチストは、彼女の無罪を証明する。そのお礼にとガランスは花とキスを贈り、そんな彼女にバチストは一目で恋してしまうのだった。

(ここで補足すると、パントマイムとは、簡単に言えば無言劇のことだ。バチストは道化師として、白塗りに白い衣装でジェスチャーを使って題目を演じる役者である。道化師、というとサーカスのクラウンのような陽気なイメージがあるが、当時の道化師は幻想的でシリアスな役割を担うことも多々あった)

このガランスは非常に謎めいて後ろ暗いところのある女性で、孤独な野心家ラスネールや新進気鋭の俳優フレデリックともつながりを持っている。そしてバチストの思いをよそにフレデリックと関係を持つガランスだが、ある日貴族の庇護を受けたことをきっかけに、その貴族と結婚する。そして数年後という設定の第二幕では、上級階級の人妻となったガランスと、一方で別の女性と結婚し子どももいるバチストは再会を果たすのだが…。

以上があらすじだ。

さまざまな恋愛模様がめくるめくこの映画を貫いているテーマはなんだろう?

それは、「恋慕の狂気と愛情の寛容さ」だと思う。

恋とは狂気だ。誰しも、恋をしている時は相手の美点を世界でそれだけが大事であるかのように思い、自分を必要以上に良く見せることに心を砕き、想い人が自分以外に目を向けることを恨む。

こんな狂気をはらんだ恋を映画内で体現しているのは、道化師役者のバチストであり、女性ガランスであり、そして野心家ラスネールではないだろうか。

バチストは、想い人のガランスと距離を縮めるにつれて常識から外れた行動をとるようになる。特に二人がそれぞれ結婚した後の第二幕では、それがとてもよく分かる。成熟した役者となった彼が演じる劇には、明らかにガランスへの執着心が現れているのだ。彼が演じる道化師は貧しい男性なのだが、立派な服を着て恋人に会いたいがために、古着を売る商人を殺してしまうのだ。この劇は、一人の女性と過ごす時間を満足いくものにするためには殺人をやすやすと犯してしまう狂気に満ちている。映画『天井桟敷の人々』内で実際にバチストが人を殺したことはないが、彼が演じる狂気めいた男の役柄は、恋愛のせいで周りが見えなくなる彼自身のことを反映しているように感じられる。

そして、妻にガランスへの恋情を知られてなお、バチストが彼女に会いに行きキスを交わしたことや、彼らの再会が原因で一つの決闘が持ち上がったことにはまったく構わず一夜を共にすることを説明するのは、「恋は人を狂気に陥らせる」という理由以外にないだろう。映画を観ていると、ガランスと出会う前のバチストは心優しく無邪気な青年だったことがうかがえる。そのバチストが妻も子どもも顧みずにガランスばかりを追い続けるのだ。この変貌ぶりこそが、恋愛のなせるわざなのだろう。

恋愛に目がくらんでしまうのは、野心家ラスネールも同じである。映画冒頭で、彼は自分自身のことを「誰も愛さない究極の孤独、誰にも愛されない究極の自由」の存在だと語っている。つまり、恋愛や女性に煩わされるまでもないと言うのだ。しかし、その発言に反して、彼は映画全編を通してずっとガランスに思いを寄せている。しまいには富豪であるガランスの夫を殺害するにまで至る。恋などしない、と明言しておきながら女性の配偶者の命を奪う。これも、思いがけない行動をとらせる致命的な恋愛の副作用だ。

多くの男を惹きつけるガランスは、恋の狂気を引き起こす不幸な存在として描かれている。彼女が誰を愛そうと、また誰に愛されようと何人も幸福になれることはないのである。

映画内で、彼女はこう形容されている。「あなたは美しすぎる。誰もあなたを本当には愛せない」。つまり、ガランスは「美」を体現する存在であり、そんな彼女を愛することは誰にも不可能なのだ。なぜなら、「美」とは誰に対しても、そしてどんな視点から見つめても変化することのない「美」であるから。それに引き換え、恋愛とは「あなたが私の中でずっと一番です」という宣言である。ガランスという「美」にむける情熱には、本質的に恋愛が叶う希望が見出せないのである。

その一方、映画内では恋の狂気だけではなく、愛情の力づよい寛容さも描かれている。

愛情を体現するのは、バチストの妻であるナタリーだ。彼がどうしようもなく他の女性に惹かれていることを知っていてなお、妻ナタリーがバチストを置いて去ることはない。その忠実な態度が最も顕著に表れているのは、紛れもなくラストシーンであろう。部屋でガランスとキスを交わす夫バチストを目撃してしまったナタリーは、冷静さを失い強い言葉でバチストをなじる。しかしその後気を確かに取り直した彼女は、他ならぬ浮気相手のガランスに「あなたたち二人のことをちゃんと私に説明して」と迫る。

どうしてナタリーは、改めて説明を求めたのだろう?映画の最後から終わりまで、彼女はバチストとガランスの関係を知っている。これ以上、何を説明してもらうことがあるだろうか。

ナタリーが説明を求める理由、それは彼女自身が映画で語っている。つまり、「私にバチストの何が残っているのかを知りたい」からである。

ナタリーは常に、「バチストが最後には私のもとに帰ってくる」と信じている。バチストがガランスに恋していることを知っていても、彼女はあきらめることなく彼を待ち続ける。この様子は、「美」の体現であるガランスがダンスでも踊るかのように様々な男と関係を結ぶのとは対照的だ。このとき、ナタリーが体現しているのは一人の男性に向ける愛情の寛容さである。「私にはバチストの何が残されているのかを知りたい」と叫ぶナタリーには、何があってもバチストを愛すると決めた女性の覚悟、そして懐の深さがある。浮気をされてなお、自分にせめて残された恋人の一部をそれでも愛そうという気概をもつ人がそう存在するだろうか?彼女には、尊敬に値する芯の強さがあるのである。

この映画の結末で、ガランスはバチストの元を去る。依然として「美」に魅了されているバチストは彼女の後を追おうとするのだが、彼は街の喧騒のなかに彼女を見失う。結局、この結末が示しているのは「美に焦がれる狂気を超越するのは、愛情である」という愛の勝利、そして恋愛の敗北ではないだろうか。映画の結末に残るのはナタリーの愛だけ、バチストの恋情をガランスに奪われたあと、それでも彼の心が自分に残されているならばそれを愛そうというナタリーの強さだけだからだ。

ただし、映画全編を通して観客の脳内を主に占めるのは、想い人に執着するバチストと、期せずして不幸を振りまくガランスの姿である。自分勝手にふるまってどんどん道を踏み外していく彼らを、私たち観客は驚きと不安の目で見つめる。しかしラストシーン、ナタリーが心情を吐露する場面で、最も印象深い登場人物像はガランスとバチストの二人からナタリーへと塗りかえられる。ストレートなジュテーム"君を愛している"の言葉ではない、しかしそれよりも深い愛情に裏打ちされたナタリーの叫びに観客は心を動かされる。三時間あまりも不健康な恋愛模様を観客として見まもってきたからこそ、結末で提示される愛する側の人間の強さが、私たちの胸を打つのだ。


美しい白塗り男のが劇場で披露する軽やかな手つきに魅入られて、私たちは狂おしい恋愛の世界に足を踏み入れる。しかし、そこで待っていたのは不義の恋愛の成就でもなく、悲しく華やかな離別でもなく、愛情の勝利だ。

冒頭で書いたように、『天井桟敷の人々』は1945年に制作されたフランス映画である。古い時代に作られたものにこそ、普遍的で愛しいものが描かれているのだと主張したくはない。なぜなら、普遍的で愛しいもの、人の人生は古い映画にかぎらず全ての映画に映るからだ。しかし、これほど力強い愛情が戦後まもなく作られた映画にくっきりと表れていること、それは注目に値すべきことではないだろうか。

『天井桟敷の人々』というタイトルを目にした時、私たちは「天井桟敷の人々とは何だろう?」「これは何の映画だろう?」と疑問を感じる。そして映画を観始めてしばらくすると、「劇場の安価な席を買って劇場につめかけた人々のことをそう呼ぶのだ」と思う(現代でいうスタンド席のことだ)。この映画は、演劇にまい進する演者たちと彼らを見る観客を描いているのかと。しかし、私たちは思いがけず恋が人間にもたらす副作用を目の当たりにし、そしてまたも思いがけず深い愛情の勝利を目にする。この映画は、演劇を取りまく人々を中心にした、一人の人間の愛情を浮き彫りにする作品なのだ。

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