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『喜嶋先生の静かな世界』 感想

白い研究室の冷たい空気が鼻腔を包んで、思わず深く息を吸い込みたくなるような本だ。タイトル通り、この本はとても静かな世界を描いている。

ただ、それは外からは静かに見えるということであって、喜嶋先生の世界は本当は触れられないほどの温度なのだと思う。

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本書に登場するのは主に二人。語り手であり主人公の橋場くんと、その指導教官の喜嶋先生だ。橋場くんが在籍するのは、おそらく工学部か…
人気のある領域ではないようで、二人を取り巻く人間は同期の女の子である櫻場さんと、ドクターの中村さんしかいない。しかも、二人は本書から途中退場する。彼ら以外の人間も皆、くるりくるりとワルツを踊るように世界から入れ替わっていく。

読んでから、ずっと私の中には橋場くんと喜嶋先生のいる世界があって、気づくとそちらの世界に思考が逃げ込んでしまう。それほどこの本は大事なものになった。


この本の何がそれほどまでに惹きつけるのかというと、とにかく語り手である橋場くんの脳内が居心地よいのだ。本書全体は「橋場くんから見た喜嶋先生」であり、したがって喜嶋先生よりむしろ橋場くんの脳内が展開されていくことになるのだが、この橋場くんの脳内というのが実にリラックスできる空間なのである。

橋場くんはコンピュータ分野(おそらく)で研究者にまでなった人で、心底この学問に心酔している。そんな人がつづる言葉は感情を極限までに排した文章なのではないか、という先入観が頭をよぎるかもしれない。しかし、橋場くんの語る言葉は、むしろ内省的といってもよいほど沈考に満ちている。

そして、橋場くんの言葉には「こうあるべきだ」という押しつけがましさが皆無である。私が彼の語ることに同意できなかったとしても、それで「自分は間違っているのではないか」と不安に思うことがない。なぜなら、橋場くんは彼自身の世界の絶対性に忠実な人であって、その外側の世界(こうあるべき、そうするべき、で満ち溢れた世界)のことを見てはいないからだ。橋場くんも読者も、自分が正しいのか間違っているのかとか、世の中の規範から外れているのかとか、そんなことを気に病む必要がない。だから、本書を読んでいても、恐れる気持ちや不安な気持ちが生まれないのだと思う。

それに、個人的な私の印象を除いたとしても、なかなか彼の語りは面白い。ここでプルーストを引き合いに出すが、プルーストの作品では物語のすじが突然途切れることが多々ある。そして、語り手の「私」が自分の思想を数ページにわたって語りつづけるのだ。この語り方は、実に橋場くんの語りにも見られるものである。この物語は、研究者になった橋場くんの回想という形で書かれているのだが、そこで思い起こされるライフイベントの間あいだに、橋場くんにとっての真実が時系列を飛びだして訥々と語られ、それがこの小説の根底に流れる一本の水脈を形成している。

この語り方は、おそらく橋場くんが他の人と全く違うところを見ていることに起因している。おそらく世間のことなど、彼にとってはどうでもよかったのだろう。それも、くだらないことはくだらない、と吐き捨てるのではなく、申し訳程度に体裁を整えておくことはできる。究極の無関心の現れだ。それは、誰かを傷つける金属のようでもあり、美しい結晶のようでもある。

こんなようなことを、橋場くんの語りを読んでいてぼんやりと思った。


次に、喜嶋先生のこと。彼は本当に何というか、食えない人だ。彼は優しくない。しかし、研究に夢中で、どこまでも正直で、そして冷酷な人だ。

彼も、さまざまなことに対して無関心である。例えば、喜嶋先生と女子生徒の会話がこんな風に展開される。

「先生は、ご自宅で食事をされますか?」
「いや、ほとんど外食だけど」
「パンも召し上がらないんですか?」
「ああ、昔、トースタがあったけど、壊れてしまって、それっきりかな」
喜嶋先生は真面目に答えている。

多分喜嶋先生にとって、この会話は情熱をもって取り組むものではないのだと思う。しかし、つっけんどんな態度をとるでもなく真面目に自分の現状を答えている。たとえば、「パンなんか食べないよ、外食ですむんだから」とは言わずに、「トースタが壊れたから自宅でパンは食べない」と答えるだけだ。

喜嶋先生の言葉は常に真意100パーセントに近い。普通なら、この世界で行われる人間の会話は真意30~50パーセントぐらいだ。だから、いつも相手の言葉を50~70パーセントほど割り引いて聞かないといけない。「あなたならできるよ」とか「そんなのなんてことないよ」とかいった言葉は、きちんと解体して取り除いておく必要がある。こういう言葉は時には心からの優しさだが、また時には無意味な余剰として受けとり手の誰かを苦労させるのだ。でも、喜嶋先生の言葉は常に100パーセントに近いから、そんな苦労をしなくていい。喜嶋先生の話す言葉を、そのまま100パーセント受け取ることに何の心配もいらないのだ。


この小説を読んでいて、かつて私が所属していた研究センターを思い出した。人数は少なく、簡潔な言葉で話す指導教官のもとで実験をして、とても居心地がいい場所だった。必要以上に入り浸ったりはしなかったけれど、私の中で大事な場所だ。だから、本書の世界観がとてもよく分かった。

私は半年で研究センターを辞めることになったのだが、その尻切れトンボな終わり方がまた、本書の終わりにひどく似ていると思った。文字に起こすとどうしてもこの小説のすごみが失われてしまう気がするので書かないけれど、印象だけを言えば、この小説の結末には背筋が冷たくなる。後味が悪い。壮絶、と言えばいいのだろうか。でも私はそんな終わり方もこのうえなく好きだ。

みなさまのレビューには素晴らしい文章がたくさんあったので一部引用させていただきます。読書メーターからの引用です。

「最後、あそこまで残酷になれるものなのかと釈然としない終わり方ではありました」
「最後の最後で逆転満塁ホームランを打たれたようなショックを受けました。一体何があったのだろう…。」
「研究があるんだから何もなくていいじゃないと言わんばかりのある種の悪意を感じたのは私だけだろうか。。」

こういうラストです。最後の最後で、これまで読んできた全てが柔らかく白い綿から、重く錆びた鉄に変わるようなラスト。一瞬で材質が置きかわるこの鮮やかさ、残酷さが私は好きです。


冒頭にも書いたが、この本には間違いなく香りがある。コムデギャルソン2のような、冷たい金属のようでいて、少し甘い香りだ。そんな香りが、喜嶋先生の世界には漂っている。私はまた一つ息を吸って、喜嶋先生の世界から退場する。

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