見出し画像

友達の成長を感じるときって、自分も成長しているよねってお話

二度目のワクチン接種を終え、不要不急ではないやむを得ない事情から地元へ帰省することとなった。

地元へ戻るのは半年ぶりになるが、この短くも長い期間のうちに身の回りで目まぐるしい変化があった。

端的に言えば、昔からの友人が亡くなったのだ。

かねてより隙を見ては「わたしはコミュ障だ!」と読者を洗脳するように口酸っぱく語りかけてきたが、それは事実である。

東京に出てきてはや8年になるが、親しい友人が一人でもできたかと言われれば、涙を流しながら「友人?なにそれうまいの?」とつばを吐いてきた。

そんな社会不適合者な私にも、数は少ないが心から信頼できる仲間がいる。

損得とか利害とか、そんな屁みたいなものを通り越して、「さあ、斬るなら斬れ!」と背中を預けられるような仲間だ。

彼らは私のようなクセの強い人間を受け入れてくれた稀有な存在であるから(彼らもまたクセが強い)、後生大事にしていこうと心に決めていた。

そんな大切な仲間の一人が、先に旅立ってしまったのである。

悲しさとか寂しさといった単純な感情では言い表せない複雑な思いを胸に、緊急事態宣言に燃える島へと帰ったのだった。

ここで「たとえ友人が死んだとしても、緊急事態宣言が出てるのに地元に帰るなんてバカなの?」という陰険な輩が現れるだろうが、まさしくそのとおりだ。

私も一応葛藤したが、ここで帰らねば一生後悔するであろうことが明白であったため、苦渋の決断をすることとなった。ディスるならディスってくれて構わない

そんなこんなで地元へ帰ると、私の愛すべき仲間たちが待ってくれていた。

亡くなった友人にお線香を上げ、友人の母上としばしの回想を楽しみ、それから仲間たちと合流した。

半年ぶりの帰省とはいえ、積もる話もあったので長い間会話を楽しんだ。

東京では味わえない愉快な時間の中、私は一人強く胸を打たれていた。

亡くなった友人ばかりに意識がいっていたが、久方ぶりに会う仲間たちは皆成長していたのだ。

一人ひとりの成長については後日詳細に書きたいと思っているが、わずか半年でここまで変化があるものかと私は驚いた。

もしかしたら、友人の死が彼らに何かしらの変化を促したのかもしれない。

いや、それは都合の良い解釈で、本当はこれまでも彼らは目に見えない変化を繰り返してきたのだろう。

今回の友人の死をきっかけに変わったのは、むしろ私のほうなのだ。

これまではなんとなく見過ごしてきた風景も、過ぎ去ってしまえば二度と戻らない。そんな当たり前のことに気付かされたのだ。

今さらだが、仲間たちの変化や成長に敏感になったというわけだ。

私が帰省することについて、友人が記事を書いてくれた。

自分の帰りを楽しみに待ってくれている友人がいる喜びは計り知れない。

彼は私のことを成長していると感じてくれていた。ふむ、どうやら友人の成長を感じるとき、それは自分が成長しているということでもあるのかもしれない。

自分が少し高い景色を見ることができるから、友人たちの本来の高さを感じることができるのかもしれない。

逆に言えば、友人が成長せずにずっと停滞しているように感じた場合には、きっと自分も停滞しているときなのであろう。

大切な友人の死が自分を変えてくれたなんて安易な表現はしたくないが、こればっかりはそれをきっかけに思い至った価値観だ。

他にもいろいろなことを考えるようになった。

目を閉じれば頭の中を洪水のように膨大な思考が渦巻いている。

焦る必要はない。一つひとつゆっくりと解きほぐしていこう。

何本か解きほぐせたら、また彼らに会いに行こう。そうしたらまた、彼らの素敵な変化を見つけられるかもしれない。





大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。