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他人からの評価に左右される人生になってないかい?

どうも。体育の時間に「好きな人とペアを組んで」と言われたら必ず残っていた私です。

このコラムは何かをあきらめきれないダメ人間が、その哀れな人生を仲間たちと舐めあいたい!という趣旨で書いています。リア充の方は即刻ご退場ください。

人間というのは非常に脆い存在で、自分ひとりでは生きていけない無力な生き物です。そのため、人は太古の昔から「人間関係」というものにひときわ注意を払って生きてきました。

それは数千年たった今でも変わらず、人々は集団で群れることを好み、共通の価値観やアイデンティティを持つことで安心するというのが常であります。

よくビジネスで成功するために必要なのは「コミュ力一択だ」という言説を耳にしますが、あながち間違ってはいないでしょう。

人間社会の中では”価値”が高い人ほど裕福になれますが、その”価値”というのは他者からの信頼に置き換えられるといっても過言ではありません。

あなたの周りでも、社内で出世するのが早いのは仕事ができるカチッとした人よりも、仕事はまぁまぁだけどコミュ力が半端なくて皆から好かれているというタイプの人が多いのではないでしょうか。

それは社内の人たちからの信頼がその人に多く集まっており、その人がいること自体が”価値”になっているからなのです。そういう人は、たとえ仕事で失敗してもその人自身への信頼は揺るぎません。コミュ力と信頼の数値は比例しやすいのです。

つまり、人間社会で円滑に暮らすためにはコミュ力が必要不可欠と言えます。

コミュ力至上主義の人間界に生まれ落ちた”コミュ障”の末路

そんな人間社会の中、”コミュ力”を子宮に置き忘れたままアホ面で生まれ落ちてきた人たちがいます。そう、私たちです。

ヒトの”コミュ力”というのは動物でいうところの牙みたいなもので、生き永らえていくための強力な武器です。

つまりコミュ力を持たずに生まれてくるということは、牙を持たずに生まれてきたライオンと同じことなのです。

そういう意味では生まれた瞬間から、非常に不利な戦いを強いられる運命にあるわけです。

子供のころはそこまで気にならなかった”コミュ力”がこの世のすべてだと悟った思春期以降、私たちはいつの間にか”社会的弱者”へとジョブチェンジを強いられ、カーストの最底辺で泥をすすって生きていくことになります。

そしてコミュ力が豊富にあるリア充たちからは、”コミュ障”という恐れ多い称号を賜るのです。

カースト底辺者は常に周囲の人々の視線を気にして生きています。「あの人の機嫌を損ねなかったかな?」「もしや嫌われたのでは?」などと常に不安を抱いているのです。

なぜなら、もしもカースト上位者から目を付けられようなら、一瞬で踏みつぶされてしまうからです。か弱きコミュ障たちは自分で自分の身を守る必要性を誰よりも痛感しているのです。

そして大人になるころには、常に他人からの評価を気にするようになっていきます。それは生存戦略としては決して間違っていません。目を付けられないように生きていくのが我々コミュ障の使命といえるでしょう。

しかし、ある日私は思ったのです。たしかに他人から嫌われないように顔色を窺って生きていれば長生きできるかもしれない。でも、果たしてそれは幸せなのだろうか、と。

コミュ障にとっての幸せとは何か

私は仕事柄、高齢の方々と接する機会が多いのですが、人生で後悔していることを尋ねると、「もっと自由に生きればよかった」と答える方が非常に多いです。とくに「若いころになんでもやるべきだった」という趣旨の言葉が多く聞かれます。

自分もいつか歳をとって過去の人生を振り返ったとき、長生きはしたけれど輝かしい思い出もなく好きなものもないという生き方だったとしたら、おそらく私は強い虚しさに襲われるかもしれない、と思いました。

そして私の経験上、「早く死にたいよ」と視線を落とす高齢者にはそういう人が多い印象があるのです。

このまま生きていけば、確実にそんな人生を歩んでしまう。私にはそういう確信があります。だからこそ、本当の幸せがなんなのかということを切実に考える必要があるのです。

他人からの評価を無視し、自由を勝ち取れ。

なんだか壮大な話になってきましたが、ここから話す私の結論は非常にニッチで説得力のないものになります。

ここまで読み進めてくれたあなたには申し訳ないですが、そもそも私はコミュ障なのであなたの気持ちなんて知ったことではないのです。

私は思いました。自分が幸せに、自由に生きるにはどうしたらいいのか。かのアルフレッド・アドラーは人間の悩みはすべて「人間関係」に帰結すると説きました。

おそらくその説は正しいでしょう。今頭の中に渦巻いているもやもやを分析していくと、驚くほどに人間関係から生まれたものであることがわかります。あなたもぜひやってみてください。これ本当です。

とはいえ、「人間関係」といっても抽象的すぎてあまり具体的なイメージが浮かびません。

一体、私にとってどんな人間関係が苦痛を生んでいるのだろうか。

結論を言うと、冒頭でも話したようないわゆる「他人からの評価」からくるものがほとんどだということに気が付きました。

うまく人と話せないのは「嫌われるかも」「話つまらないと思われるかも」「迷惑かも」という意識が先行しすぎて、自分の言動にブレーキをかけているからです。

ある意味で自意識過剰ともいえるこの現象は、コミュニケーションだけでなくさまざまな行動にも波及していきます。

人前でなにかパフォーマンスをしたり、夢を追いかけるといったことにも同様の理由で制限がかかってしまいます。

この「他人からの評価コワイ病」は非常に強力な呪いで、人生の大きな障害となります。

これは何が何でも克服しなければならない。そうしなければならない!私はそう痛感しました。

「鼻毛」理論で自意識過剰から脱却する

それから、私は地道にいろいろな方法を試してきました。自己啓発書を読み漁り、「他人からの言動には反応しない」「相手の幸せそうな姿をイメージして慈悲の心をもって接する」「人は人、自分は自分だと割り切る」など山のようにスキルを学んでは撃沈してきました。

もちろん悪いのは自己啓発書ではありません。彼らはどこからどうみても正論を言っているし、実際に実行できたならきっとコミュ障を克服できたでしょう。

しかし、巷にあふれている自己啓発書の内容はあまりに高尚すぎる。というかそれができたらもはや仙人の域だろ、というものばかりなのです。

ため息をついた私は、それまで学んだ理論を踏まえつつ、自分がやりやすい方法を発見することにしました。

その結果ひねり出したのが、

「人と話すとき兵隊のようにめっちゃ大きな声で話す」

「獣のごとく目は相手が逸らすまで絶対逸らさない」

という迷走に迷走を重ねた技でした。これらの方法は思いついたときは「これ最強じゃね?」とテンションが上がりまくり、実際最初の数日は効力を発揮しました(あくまで私の話です)。しかし、しょせんはつけ焼刃。すぐにしぼんでいきました。

万策尽きた私は途方にくれました。飲めない酒を飲んで酔ったフリをしては推しのアイドルに向けてポエムを書き綴ったりもしました。

もう私に輝かしい未来なんてない。コミュ障は涙を呑みながら生きていくしかないんだ。そう思っていました。しかし、ある日私はあることに気が付いたのです。

それは仕事で上司に怒られていたときのことでした。怒られていた内容自体は大したことではなかったのですが、他人からの評価を気にしすぎる私にとっては軽い説教でも委縮してしまい、しんどい思いをしていました。

もう一人同じようなことで怒られている同僚がいたのですが、そいつは飄々としていて悪びれる様子もなく、むしろ上司に臆せず冗談を交えながら改善点などを聞き出し、ついには気に入られてしまいました

それを見ていた私は怒りと自分の情けなさに打ちひしがれ、完全に自信を喪失してしまいました。私はもはや抜け殻のような顔で怒っている上司の顔を見つめました。

上司の鼻からは立派な一本の鼻毛が出ていました。

私はなぜだかその鼻毛が妙に気になりました。理由はわかりませんが、どうにも目が離せないのです。あまりにも立派な鼻毛でした。重力に逆らって上を目指すタイプの鼻毛でした。

そして私の内部ではおかしな変化が起こり始めていました。それまで委縮して固まっていた体がほぐれきて、それから徐々に怒りが湧いてきました。

なんで俺はこんな鼻毛出てるやつに説教されてるんだ?

心の中の私がぼやきました。その一言で私の中の何かが崩れ去りました。

それからは、その上司が何を言っても、「でもお前鼻毛出てるけどな」と心の中で返すことで”上司からの悪い評価”をうまくスルーすることができたのです。

私はなにかを掴んだような気持ちがしました。それからというもの、誰かの評価が気になるときには、「でもお前鼻毛出てるけどな」と付け足すようにしました。別に鼻毛が出ていない人にも言っていました。

すると、不思議なことにこれまでよりは軽く流せるようになったのです。

思えば私は、他人を過大に評価しすぎるところがありました。カースト底辺であるコミュ障として生きてきた私にとって、リア充(社会的に認められている人も含む)はあまりにまぶしかったからです。

しかし、実際にはリア充だって鼻毛が出ることがあるのです。鼻毛だけじゃない。汗臭い人もいるし、いつも襟がぴろんってなっている人もいるし、内面が残飯のように腐っている人もいる。

カーストなんて関係ない。私たちは同じ人間なんだということに気が付きました。

私はついに、一つの解決策を見出したのです。もちろん、他人からの評価が怖いという性格は簡単には治らないし、あと数年はかかるかもしれない。もしかしたら、また徐々に効果がなくなっていって振り出しに戻るかもしれない。

でも、私は自由になるためには努力を惜しまないと宣言したいと思います。自分自身を怯えという呪縛から解き放ち、空へと飛び立たせるのはやはり自分にしかできないからです。

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さて、最初の方にも言った通り、かなりニッチで説得力のない話になってしまいました。しかし、私はとにかく「何かをあきらめたくない」という姿勢でこの文章を書きなぐりました。

私と同じような境遇の人がきっといると思います。私たちには人を魅了する才能もなければ経験もありません。ただ地道に生きていくしかありません。しかし、そんな人生でもいつか花開くと信じています。

いつか雨がやんで美しい虹が見られるその日まで、あらがってあらがってやりしょう。最後まで読んでいただきありがとうございました。

ちなみに、この記事を書いている私もまた鼻毛が出ていたことは内緒にしておこうと思います。


大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。