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平日でも丁寧に生きれば幸せになれる

今日も今日とて疲れた。1時間の残業を終え、帰路につくと世の中はもうすぐ夜を迎えようとしていた。

そもそもの業務量が多い上に、HSPで人間関係に神経をすり減らすから、帰る頃にはポケモンで言うところの「ひんし」状態になっている。

家に帰れば「疲れているから」という口実で家事を先延ばしにし、自炊せずに弁当を買い、心の癒やしにと映画やゲームに浸る。寝る時間ギリギリまで娯楽にいそしむことで平日も楽しめるんだ、と自己暗示をするのだ。

しかし、それだけでは心は満たされなかった。どんなに好きな映画を見ても、ゲームに白熱しても、寝る前には空っぽの感情だけが残るのだ。

次第に平日に楽しむということを諦めるようになり、ただ作業のように日常を繰り返すだけになった。一体なんのために生きているのだろう。働いてお金を稼ぐという行為は、人生を自由に生きるための手段に過ぎないのに、実際にはそれが人生を支配していて、むしろ余暇時間のほうが手段と化している。本末転倒とはこのことだ。

足元から虚しさと静かな怒りがこみ上げてきて、このくだらない人生を変えなければならないと私は思った。

日常を変えたくて、しゃぶしゃぶをすることにした

いきなり人生を変えるといっても、それは無理な話であるから、まずは今日一日の過ごし方を変えてみようと思った。

普段ならスーパーで出来合いの惣菜や弁当を買ってしまうのだが、今日は精肉コーナーへ直行し、しゃぶしゃぶ用の豚肉を買い物かごにぶちこんだ。正直調理前の食材をかごに入れるのは躊躇した。なぜなら時間をかけて料理をしなければならないし、そして皿洗いという労働までこなさなければならないからだ。

しかし、そんな甘いことを言っていてはいつもと違う日常にはならない。私は今日、サザエさんの食卓のような温かで幸せな時間を過ごすのだ。

白菜やネギなどの野菜も買い揃え、レジへ向かう。金額は1000円ちょっと。弁当はだいたい500円で、同居人の分も合わせると1000円ぐらいになるから、ほとんど同じ値段だ。

家に帰宅すると、手を洗ってまっさきにお米を研いで炊飯器の電源を入れる。それから風呂に入り、鍋の用意をする。材料を切って放り込むだけだから意外と面倒じゃない。

ご飯が炊けるのと鍋が沸騰するのを待っている間手持ち無沙汰なので、普段はやらないストレッチをしてみる。普段運動をしないから、私の筋肉はギチギチに凝り固まっていた。

自分の体の状態に向き合うのって、なんだか久しぶりな気がする。

しばらくすると、鍋で煮込まれた野菜の良い香りがしてきた。普段はテレビの前に置いているダイニングテーブルを引っ張り出して、その上に卓上コンロを設置する。

やっぱりしゃぶしゃぶは台所で作るのではなく、食卓を囲んでしゃぶしゃぶするのが一番だ。

そのうち同居人が帰ってきた。いつものように疲れ切った顔をしていたが、私が鍋の用意をしているのを見てパッと表情が明るくなった。「なになに、今日はお鍋なの?」

鍋は人のこころまで温かくする

二人で食卓を囲み、いつもの40点ぐらいの弁当ではなく、温かい鍋をつつく。普段は食事のときはそれぞれスマホで好きな動画を見ているのだが、しゃぶしゃぶなので自然とスマホはいじらなかった。一時的に暇をつぶすだけの動画よりも、目の前にある充実した日常のほうが大切だった。

「子供の頃、良い匂いのする消しゴムが流行ってたよね」

同居人が唐突に思い出話をしはじめる。それからお互いがどんな子供時代を過ごし、どう成長してきたのかを伝え合う。まるで付き合いたてのころのような会話だな、と懐かしく思った。

鍋を食べ終えてからも、しばらく二人で話し込んだ。出来合いの弁当を食べていたらなら、今日こんなふうに向き合って話すこともなかっただろう。

お腹も十分に満たされたが、同時に心も満たされていくのが分かった。

後片付けや皿洗いもそこまで苦にはならなかった。幸せの残り香を感じてむしろ楽しんでやった。

外では誰かの笑い声が響いている。この世界のいたるところに、幸せというのは存在しているらしい。

面倒の中にこそ幸せはある

疲れているから、明日早いから、と面倒を避けて楽をしていると、たしかに自分の時間は確保できるが、日常の充実感を味わうことはできない。

手間や時間がかかる、難しい、面倒くさい・・・そんな先延ばしにしたくなるような行いこそが、実は幸せというものの手触りなのかもしれない。

弁当を買っていれば1時間ほど時間を節約できただろう。たしかに便利なこの時代では、手料理というのは非効率なのかもしれない。しかし、手料理を作ったというちっぽけな達成感やそれを人に食べてもらう喜びは味わえない。

どちらがいいかと言われれば、非効率でも幸せを感じられる後者を大切にしたい。もちろん、毎日はできないだろうが、余力のあるときは多少面倒でも幸せの予感がするものであれば積極的にやっていこうと思う。

面倒なものこそ、本当は幸せというものに一番近いのかもしれない。面倒なことをするというのは、それだけ日々を丁寧に生きるということなのだ。

日々を作業的に繰り返すのではなく、ひと手間を加えて”オリジナルの1日”にする。そんなことを積み重ねていくことで、幸せというのは手に入るのかもしれない。


大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。